虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「歩いても歩いても」

toshi202008-11-25


監督・脚本・原作:是枝裕和

 


 「10年やそこらで忘れてもらっちゃ困るのよ。」と、母は言った。



 京急沿線のとある駅。バスにゆられて7つ目のバス停を降り、そこからはるかに長い坂の上。そこにある家が、彼の実家だった。


 彼は新婚で、はじめて奥さんを実家に連れて行く。妻は彼が二人目の夫だった。息子がひとり。小学5年生。その子は、彼をお父さんとは呼ばない。正ちゃんと呼ぶ。彼は携帯ゲーム機から目を離さない。
 父は元医者で、自宅で開業していたが、今は引退している。母も健在だ。健在すぎて毒舌が過ぎることがある。きょうは姉夫婦も来ているはずだ。姉は子供が二人。ちょっと生意気になりかけの娘がひとり、息子がひとり。


 その日。なぜかつての家族全員が集まったのか。15年前の今日。彼の兄が死んだからだった。
 気立てがよく、優秀で、父から将来を嘱望されていた兄。彼は常に兄の影にいた。死んだ人間にはかなわない。だが、それでも彼にも意地があった。医師を継ぐ道を絶った彼は、美術品の修復を生業としていた。だが、今は仕事がない。それを父に知られたくなくて、妻には口止めをするように言い含めた。


 家に着くと、母と姉が愛想良く、彼とその家族を迎える。だが、父は彼らを一瞥した後、「来てたのか」と言い放ち、かつての診察部屋へ引っ込んでしまった。父との空気はいまだに、苦手だ。
 こうして、彼の忘れられない一日が始まる。


 @下高井戸シネマで落穂ひろい。見れてよかった。


 ただ1日。実家に帰り、両親とともに過ごし、そこを去るまでの話。


 それを淡々とした描写で描いているにもかかわらず、登場人物たちの演技や、せりふは一言一言に、家族の重ねてきた年月を感じさせる。阿部寛演じる次男と父親の関係はどことなくぎくしゃくしている。父はかくしゃくとはしているが、引退して以後居場所がない。その分母親は元気に、家事をはりきってやっている。ましてや孫や、息子が帰ってくる日でもあり、毒舌にも拍車がかかる。
 兄の命日に必ず、彼の実家を訪れる青年がいる。兄は彼を救うために、命を落とした。当時10歳だった彼は、25歳になった今も、律儀に兄の命日に線香を上げ、香典を渡す。彼は、フリーターをしながら、広告関係の仕事につくためにがんばっている、今の僕があるのは、彼の兄のおかげです、と言って卑屈に笑う。憮然としている父の横で母は笑顔を絶やさず、また来年も必ず来てくださいね、と言う。


 彼が去ったあと、父は彼を口汚く罵る。「あんなくだらないやつのために、うちの・・・。他に代わりはいくらだっていたろうに」とこうである。女性陣はそれを黙って聞いている。いずれはこの医院を継ぐはずだった兄。それがあんなふがいない若造のために死んだ。父はその悔しさをいまだに忘れていない。いや、引退した今こそ、余計に感じているのかもしれない。
 しかし、兄の人生と彼の人生を引き合いにだして、下る下らないと言い出すその父の価値観に次男は耐えられない。そういう価値観こそが、父親との溝のありかでもある。「医者がそんなにえらいんですか!」とやり返す。


 母は母でもっと複雑だ。彼女は次男の嫁の素性をあまり快く思ってはいない。もちろん彼女の息子についても。それを彼女の前ではおくびにも出さないが、次男の妻はそれを微妙に感じ取っている。
 母親には母親の理屈がある。息子が前の旦那と比べられる、ということが不憫でならないのだ。妻は妻で、彼女が悪態つかれるならまだしも、息子に対して母が他人行儀に話すのが気に入らない。


 そういう複雑な感情を、短いせりふでずばっと吐き出させる脚本がすごい。


 一番すごかったのは冒頭に掲げた台詞に始まる母の言葉だ。この一言の、感情が一気に染み出すようなその有りように、圧倒されてしまった。それは常にかんしゃくを起こしている父とは違う、より押し殺してきた感情がじわっとあふれ出たような、そんな言葉。
 30年以上「家族」している平凡な家族。母もまた「こんなの普通よ」と言い放つ。それに対して次男は「なんだよ、普通、普通って」と返す。


 他にも「ヨコハマ・ラプソディ」をかけながら、母が父に対して放ったささやかな反撃をさらっとしたユーモアで描いたシーンも忘れがたい。
 台詞の端々に家族の三十年以上の「時間」を内包させ、なにげない「はずの」一日にもかかわらず、その一日は決して未来と無関係ではない。ラストシーンでの次男夫婦のありようは、その一日が決してただの一日ではなかったのだと思わせる。


 喪失。それに伴う後悔。人生はいつも何かに「間に合わない」。人はそれを抱えて生きていく。彼が「誰かの息子」でいられた時間という、その時間は、彼の人生の中でかけがえのないものとなっていく。その当たり前の真実を、ユーモアを交えて鮮やかな筆致で描き出した傑作。(★★★★★)