虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「少林少女」

toshi202008-05-05

監督:本広克行
脚本:十川誠志/十川梨香
製作総指揮:亀山千広/チャウ・シンチー



 映画ってのはなにでできているだろう。


 そんなことを考えてしまうほど、この映画を見て俺は大変衝撃を受けた。とにかく映画を見終わって持ち帰った感情は「喜怒哀楽」の最初と最後の部分を抜き取った部分だけだった。怒り、のちに哀しみ。ここ何年も映画を見てきたけど、こんなことになったことはないわけではないが・・・ここまで極端なのは初めてだ。見ていて、あまりに理解不能のことが多すぎて、しばらくその感情のありかを持てあましていたのだ。
 映画の出来不出来が問題なのか。いや、それもあるが、この映画を見てなにに衝撃を受けたって・・・この映画には「愛」がないからだった。


 「愛」。漠然とした物言いだけど、これが一番正しい気がする。おれは「ぞっとした」のだ。この映画に。
 俺は今まで駄作という烙印を押された映画を結構見てきたけど、意外と自分の中で飲み込めたことが多かった。例えば。最近で最も話題になったキング・オブ・駄作といえば、「デビルマン」であろうが、俺はあまり悪い感情は起きなかった。俺は作品と才能が完全にかみ合ってないがゆえの悲劇だとは思ったが、監督に愛がないとはまったく思わなかった。那須監督にしてみたら、せいいっぱいの愛を込めたにちがいない、ただ、そこに実力とセンスがまったく伴わなかっただけだ。そう思ったのだ。
 「シベ超」「大日本人」「ゲド戦記」など、力及ばず駄作の認定を受ける。それならば、こちらとしても納得がいく。全然愛せる。だが・・・俺はこの「少林少女」に「デビルマン」にすら感じた「愛」を一切感じなかったのだ。


 俺が本当にびっくりしたのは、何故。作り手は何故この映画に携わろうとしたのか?という疑問が俺の中からわき出てきたことだ。本当に「少林サッカー」が好きで、チャウ・シンチーが好きで、好きで好きでたまらないという人間が、彼に心底心酔して撮っていることが感じられたなら、どんなに良かったか。しかし、映画を見る限る、借りたのは「スタイル」だけで、本質的には全くベクトルが逆の映画に見えた。
 
 疑問だったのはそこだ。本当に、本当に、本広監督以下スタッフはチャウ・シンチーを愛していたか?俺は、その愛を疑っている。疑うしかないのだ。ラクロスという題材を扱いながら、少林拳によって「ラクロス」が強くなるわけではない、という脚本はありえねえだろう。少林ラクロスにするわけでもなく、「クンフー」によってすべてが解決するわけでもない。ヒロインの師匠は「かたちよりこころだ」とやたら連呼するが、かたちを極めずして、こころが伴うだろうか。
 「戦いの道具じゃない」」はけっこうだが、その結果ヒロインが結局「戦いの道具」にして大乱闘、という展開に苦笑。その結果があのクソ以下のクライマックスでは全く意味がない。大体、チャウ・シンチーの主人公はクンフーへの愛は純粋すぎるものであり、それを疑うことなどない。「戦いの闇」が待っているから「戦わない」という選択肢などもてるはずがない。戦いの闇が云々の問答自体がナンセンスだ。戦いの闇を云々するなら、巻き込まれてから考えればいいはずのことだ。
 つまり、出来不出来が問題ではなく、そういう「基本的なところ」がズレているのである。


 この映画の悲劇は、「少林サッカー」のスピンアウトであるにも関わらず、その元ネタに愛のない人々が作った映画だからである。本広監督や脚本の十川某などは、おそらく「成り行き」で「仕方なく」引き受けて、愛情の落としどころもないまま見切り発車したのではないかと思うのだ。そうでなければ、とてもこんな映画になるわけがない。
 愛がないまま映画を作る。
 ただそれだけのことで、映画はこれほどまでに冷たくなるのだ。表面上明らかにパーフェクトに見えるチャーハンでも、明らかに食えない「店頭見本のプラスチック」のチャーハンのような映画になるんである。そのことに気づかされたことに、この映画の価値がある。本広監督は二度とカンフー映画を撮らないように。迷惑だから。(★)