虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「ミスト」

toshi202008-05-10

原題:The Mist
監督・脚本: フランク・ダラボン
原作: スティーヴン・キング


 はじめは。嵐だった。木が窓を突きやぶった。祖父が植えた樹木。朝になると、湖の向こうに霧が見えた。隣人とともに買い出しにでかける。そこへ向かう道すがら、軍用車両や戦車といくつもすれ違う。彼らは湖の霧の方向に向かっているようだった。
 店に着きしばらくして、霧が静かにそして早く、店の周りを覆い始めた。いつ晴れるかわからぬ霧の向こうで何かが起こっていた。その何かがわらぬ


 日常の延長線上のなかで、いつのまにか「霧の監獄」と課したスーパーマーケットに足止めされた人々が辿る運命の物語。


 世界が回る。気がつくと、自分は地面に這いつくばっている。
 柔道の技を受けたことのある人がいるならばこういう経験をしたことがあると思う。初めて柔道技で投げられたとき、その体の衝撃はでかすぎる。だって自分が倒れるつもりがないのに、「倒れてしまう」のだ。


 この経験を俺は10年ちかく前にした。奇しくもそれは同じ監督、フランク・ダラポン監督の「ショーシャンクの空に」だった。その衝撃を忘れられず、映画館通いを始めて今の自分がいるのだが、それはともかく。
 傑作にもいろいろなものがあって、そのパンチ力にノックアウトしてくるものもあれば、気がつくと自分がしばられて穴の中に寝かされて、どんどん土を被されていくような映画、気がつけばこころがダンスの輪にに加わっているような映画もある。


 この映画は、観客の体重移動を利用してくるりと世界を回転させ、気がつくとこの映画の完璧な投げ技に一本とられている。そんな映画である。


 この映画は、誰が悪いわけではなく、ただ、漠然と彼らは世界の脅威と壁一枚隔てた密室に閉じこめられる。初めはとまどいと恐怖がありながらも、しばらくはゆるい空気が流れていく。だが・・・脅威が具体化した瞬間、中にいた人間たちは、自分たちが置かれた状況を認識し、恐怖に翻弄されていく。
 この映画にはひとつだけ、救いの糸が垂らされいる。それは、あまりにも真っ当で正しいけれど容易には決断できない選択肢である。主人公である画家も、ついにその糸をつかむことがなかった。
 彼らは、世界の脅威と薄皮一枚で隔たれた空間で、その恐怖と対峙されることを要求される。
 文明からも隔絶され、息苦しい空気が劇場内を包む、劇場の中の空気すら薄くなっていくような恐怖が、店内の人々を包み始める。彼らがそこにとどまる理由はただひとつ。「霧はいつか晴れる」という「希望」だった。
 だが、霧は晴れない。そして霧の向こうに何かがいる。その恐怖に耐えきれず、出て行こうとするものが現れる。主人公の隣人が先導して彼らは出て行く一人の屈強そうな男が自分に紐をつけることに同意してくれて、「何かあったら紐を切るぜ」と言った。だが、その男は生きて帰ってくることはなかった。引っ張られたあと、彼の上半身のない体だけが、主人公が引っ張った紐の先につながれていたからだ。


 その紛れもない結果を目の当たりにした人々の心に、完全な恐怖が支配する。「未知の脅威などない。ただ霧があるだけだ」。それが彼らの中にあった希望であった。しかし、それは完全に崩れ去った。生きてここを出ることは出来ない。そのことを思い知らされる。そして、追い打ちをかけるように、夜霧の向こうから、見たこともない巨大な虫たちが店に集まり始め、ガラスを突き破って暴れ出す。店内は完全に恐慌を来し、もはや収拾がつかない。
 希望の目がひとつ、またひとつつぶされていき、彼らの行動の選択肢は限られていく。絶望に囲まれて、それでも人々は希望を求める。まるで、光に呼ばれて集まってきた、さっきの巨大な虫たちのように。


 覆水は盆に返らない。そして、溺れる者はワラをも掴む。


 そんなときに一人の女性が、「これは世界の人々に対する傲慢への罰なのよ」と言いだし、そして「生け贄を捧げるべきなのよ」と言い出す。もともと敬虔な信者だった一女性(マーシャ・ゲイ・ハーデン、ハマリ役!)が、恐怖に耐えきれずに発した*1この言葉が、一部の心の弱い人間の心を捉え出す。
 主人公たちは虫の襲撃で死に瀕した男の苦痛をやわらげるために、隣の薬局へと向かうために部隊を結成し、そこへ向かう。だがそこで目の当たりにしたものは、世にもおぞましい地獄。そして、生きながらに体内から虫に食われ続ける苦痛を受け続ける軍人の姿だった。


 無事に帰ってきた人間たちの様子から店内はさらに混沌を深め、教祖とか化した女性の信者か、そうでないかの二極分化が進んでいく。


 この時点で、観客は当然宗教に流れていく人々の狂気を醒めた目で見て、主人公に心を共感させていくことになる。だが、主人公もまた、ゆっくりとすこしずつ狂気の芽を心に孕んでいた。そして、ソリッドな状況におびえる観客のこころにも。
 加速度的にエキサイトしていく「教団」を横目に見ながら、なるべくなら脱出したい。それが、「信仰」にこころを奪われない人間たちの希望であった。だが、その障壁が存在した。「教祖」さまと化した女性である。彼女は信者ではない彼らに「出て行ってはならない」という。いつの間にか多数派になっている彼女は、その空間では「すべてを見通す存在」という妄想の中で生きている。もはや説得は不可能。
 早く出なければ自分たちの命が危ない。狂信者と化した集団が、一人の男を死に追いやったことで、主人公たちは、そこを出て行くことを決断する。彼らはその場を脱出するために、「狂信集団」と対峙することになる。


 狂わずには正気を保てない。そんな世界の中で生きてきた。そこから逃れるために、主人公たのうちの一人が、ついに一線を踏み越える。その瞬間、観客にはおそらく、拍手したいほどの「解放」が訪れる。「よくやった!」と誰もが思う。主人公もその行いを肯定する。だが。その一線が、主人公のこころの枷を外すことになる。そして観客の心も。
 やがて、主人公たちが自分たちの希望が喪われたことに打ちのめされて行う決断に、観客はそれが唯一無二の選択肢であり、その決断に「解放」すら感じることになるが、その後に待っているのは、「自らを写す鏡」である。


 血まみれの主人公。そして、血まみれの・・・自分。


 「まともだとおもっていた自分」が、実は人間の底にある狂気に身を委ねていたことに気がついて愕然とする。この映画の絶望は、主人公に対する哀れみなどではない。自分の中の狂気を突きつけられる絶望である。狂気と正気。その境目はどこにあるのか。実はその境目は容易に認識できるものではない。俺だけは、わたしだけは大丈夫。狂ってなど、いない。そんな観客の、心の隅に残っていた「楽観」すら奪い去る、その凶悪なラストに愕然としてしばらく立てなかった。
 そして、最後に映し出された「希望」は、「あの店内にいて、唯一救われたひと」であった。「そのひと」が辿った道筋にこそ、主人公が本来辿るべき道があった。主人公は後悔のあまり、絶望的な叫びを上げる。そして無常にスタッフロールが流れ出す。主人公の叫びは観客のこころに深く深く突き刺さって、容易に抜けない。傑作。大傑作。(★★★★★)

*1:主人公もそれをわかっていたのだよね。最初は・・・。