虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「つぐない」

toshi202008-04-19

原題:Atonement
監督:ジョー・ライト
脚本:クリストファー・ハンプトン
製作総指揮・原作:イアン・マキューアン



 タイプライターがタイトルを打ち出す。


 「Atonement」。


 やがてタイプライターの音が、音楽と共鳴しあいながら、響いてくる。カメラはやがて一人の少女がタイプライターを打つ姿を映し出す。少女はその文章を書き終え、その紙を持ったまま、早いリズムで屋敷を歩く。母親を捜している。その文章を見せるために。やがて、彼女はある青年とはちあわせにある。「劇をやるんだって?」と青年は、聞く。彼が知っていたことに驚く彼女は、意を決したように「見に来て欲しい」と彼に言う。彼女が書いた初めての戯曲を。

 だが、その日。劇は行われることはなかった。その代わり、彼女は、その青年に対して、全生涯をかけてつぐなわなければならぬ、ささやかで、そして大きな罪を背負うことになる。



 まず誉める。邦題がすばらしい。完璧。これほど美しい邦題は近年まれにみると思う。


 そしてこの映画である。すごい。すごいね。


 見た後、しばらく気がつかなかったんだけど、音楽の中になぜタイプライターが流れるのか。この事に思いを巡らせた瞬間、もう愕然とした。すごい。この映画自体が「●●●●」そのものなのだと気づいたとき、もう鳥肌ですよ。なんということだろう。映画を見始めたときから、すでに観客は、ジョー・ライトの手のひらの上にいる。
 映画のリズム、計算され尽くしたタイミングで演技させる「動き」の虚構性を志向した演出も素晴らしい。
 その躍動するフィルムが、一定のリズムに乗せて躍動する登場人物たちの、それぞれの思惑、そして時にきまぐれな行動。その結果、少女が犯す、許されざる罪を映し出す。


 そして、この映画の「必然」としての結末。
 この映画は、2回見て欲しい。そして分かることがある。作り手が観客に対してかけたある「魔法」は、すでに映画が始まったときにはかけられていることを。そして、その少女の「つぐない」は「決して果たされることはない」ということも。なぜなら・・・。



(以下、ネタバレ含む)


 一人の女性と、一組の恋人たちの物語を書くこと。そして、それが彼女が自分に課した、罪に対する「つぐない」である。そしてこの映画の、「ほぼ」すべてが「つぐない」そのものなのだ。その「物語」を書き終えた時、「つぐない」を果たしたと彼女は思っている。だが・・・・。
 彼女は真実を、すんでのところでねじ曲げる。彼女の中の罪を見つめ続けながら、最後の最後、その「結末」を翻す。彼女はそれを「作家的良心」として、肯定するのだが、贖罪として書いていたはずの物語は、「真実」を秘匿したまま終焉を迎える。そこでひとつ、疑問が浮かび上がる。


 彼女は、ほんとうに「つぐない」をやり終えたのだろうか。


 そのことを思うとき、慄然とするのだ。「つぐない」の物語は、彼女の「インタビュー」を含めて見ることで完成する。だが、彼女が書いた「本」は・・・それを含んではいないのだ。物語の神たる作者の手で描かれる限り「贖罪」は完遂しえない、という小説の「不可能性」をも示唆する、必然にして深いラスト。
 「一本の映画」として、ジョー・ライトは映画の「虚構性」を最大限に生かした、大胆不敵なたくらみを完遂した。その鮮やかで、完璧な手際に、完全にしてやられた。傑作。(★★★★★)