「君のためなら千回でも」
原題:The Kite Runner
監督:マーク・フォースター
脚本:デビッド・ベニオフ
僕はあの日、君を見捨てて逃げた。君が僕らの元を去るとき、さよならが言えなかった。でも今なら言える・・・。
1970年代。アミールとその召使いの子ハッサンは、何をするにも一緒だった。凧揚げ大会の日、アミールは凧を取ってくるように、ハッサンに頼む。ハッサンは答える。
だが、その日。ハッサンが披差別民族であるハザラ人の息子であることを罵られながらも、凧を守るために抵抗の意思を見せたことで、近所の悪童から手酷い仕打ちを受ける。アミールはそれを知りながら、恐ろしさのあまりそこから立ち去ってしまった。それがきっかけで二人の間に見えない溝が生まれる。
やがて、ハッサンとその親父さんはアミールたちの下から去り、アミールもまた、ソ連がアフガニスタンに侵攻してきたのに伴い、亡命を余儀なくされた。
「ベルセポリス」を見た時にも思ったことであるが、戦火にまみれようとしている祖国を、ただ離れることはそれだけで「罪悪」を感じるものなのだな、と思う。日本という場所にいるとつい忘れがちだが、世界では常にそういう多かれ少なかれそうせざるを得ない人々がいる。アメリカにいる。ただそれだけが罪。本当は決してそうではないはずなのに。
この映画でその罪を象徴するのは、父親が祖国に隠していたある「事実」が露見することだ。彼はついにその秘密を墓まで持っていったつもりだった。が、アミールがやがて知ることになる「事実」は彼を決定的に打ちのめすことになる。父親が隠してきた「罪」は、さらに自分やハッサンに要らぬ業を背負わせたことも彼を狼狽させる。
僕は往く。二度と振り返ることないはずだった祖国へ。自分が「祖国に置いてきたもの」を取り戻しに。どんなに購っても取り戻せないものもある。だけど、ただひとつ。ある。せめて。せめてそれだけを取り戻すためならば。僕は死を恐れない。今なら言える。
この映画は決してハッピーエンドだとは思わない。彼が見た、「失われた祖国」の像はこれからも張り付いて離れないだろう。彼が助けたひとつの購いのために、また、多くのものを見捨ててきている。そのことも、この映画は描いている。この程度では購えない残像を、抱えて生きることになるだろう。
だからこそ、彼は何度でも、言うのだ。その言葉を。
忘れえぬ罪はいまだ晴れない。だからこその「君のためなら千回でも」という言葉なのだろう。祖国の空に凧がたなびくその日まで、贖罪の物語はいまだ終わらないのである。ラストにアメリカの空に舞う凧は、故国の平和への祈りでもある。そう思った。(★★★★)