虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「かぞくのくに」

toshi202012-08-26

監督:ヤン・ヨンヒ


 1997年。千住。そこに住む父(アボジ)母(オモニ)、そして長女・リエ(安藤サクラ)という構成の家族はひとりの男を待っている。


 かつて地上の楽園として「在日朝鮮人」が希望を持って向かった国。25年前、北朝鮮の「帰国事業」で父の命で北朝鮮へと向かった長男・ソンホ(井浦新)が帰ってくるのである。
 父の弟であるサムチョン(諏訪太朗)の尽力もあって、3ヶ月間の期限付きで、「治療」のために非公式に帰ってきた長男。彼は北朝鮮では治療できない「脳腫瘍」を患い、病が発覚して5年目に、日本の病院で手術を受けるために来日したのだ。家族は彼を温かく迎える。しかし、彼には「監視役」として一人の男(ヤン・イクチュン)がついていた。名前を「ヤン同志」という。
 それでも、久しぶりの日本に、家族の家がある商店街を一歩一歩かみしめるように歩くソンホ。母との再会。そして一時の団らん。久しぶりの日本だが、監視者の存在が、25年の間に染みついたソンホの「習慣」が時折「彼の国」の影を落とす。
 ソンホはリエに連れられて、かつての旧友たちと再開するが、日本では当たり前のことが、北朝鮮に生きるソンホには許されない。自分が生きた25年の人生を語ることも、日本の歌を公の席で歌うことも。それでも口からこぼれ落ちる、かつて生きた「日本」の歌「白いブランコ」。綿が水を吸うかのように、ソンホの中に急速によみがえる、「かつて日本で過ごした日々」。
 そして、ソンホは治療のために病院へと通い始めるのだが、やがて、本国から彼に「非情な通知」が届く。


 自身も在日朝鮮人2世であり、その家族についてのドキュメンタリーを撮りあげた女性監督ヤン・ヨンヒの劇映画デビュー作は、フィクションによって「在日朝鮮人」の家族に起こった出来事と向き合っていく物語である。
 この物語は政治性よりも、彼女自身の経験が反映された「ある家族」の物語として透徹とした目線に貫かれている。物語は「日本に住んでいる」朝鮮人として育った妹の目線で、「『祖国』で生きている」兄との再会を描いているのだが、兄と過ごせば過ごすほど、同じ家に生まれながら兄と私は「祖国にいない」ことと「祖国へ帰った」という分水嶺によって、分断されてしまったことを強く感じてしまう。「かぞく」なのに。「かぞく」なのに。


 この映画において、姉妹のほかにキーとなるキャラが、「彼の国の監視者」である「ヤン同志」である。彼は見た目的には「フツーの朴訥としたおっさん」である。コーヒーに砂糖とクリームをたっぷり入れないと飲めなかったり、日本の病院を見てソンホに「おー、まるでホテルみたいだなー。」と素朴な感想言ったり、滞在してるホテルで有料チャンネルのアダルトビデオを見てたりするような、まー、フツーのおっさんなのである。
 しかし、それでも生きている国が違うだけで、彼は一家族を昼夜ひたすら見張ったり、「本国」の理不尽な命令を伝えなければならない。


 「謎の国」「わからない国」「嫌いな国」。妹は「北朝鮮」への不信を、「兄」と私を「分断」させた理不尽を行う国への怒りを、この「監視者」にすべてはき出す。
 「監視者」はそれを聞き終わるとぽつりという。「あなたがきらいなあの国で、お兄さんもわたしも生きているのです。」「・・・死ぬまで生きるのです。」


 この映画は声高に「誰が悪い」などと糾弾したりはしない。ただ、今、一家族に起こる「理不尽」を描き出しつつ、しかし人はどこまでも「人」なのだという、真実を描き出す。
 「理不尽」な命令が家族に伝えられた後、母(オモニ)が息子のために長年貯めた貯金で、本来なら憎むべき相手であるヤン同志に、スーツを買う場面が印象的だ。母親は「遠くの親戚より近くの他人」が頼りになることを経験的に知っている。だからこそ、ヤン同志に息子に協力してくれるように頼むのだ。


 「在日」への差別があるこの国と、「理不尽」がまかり通る「祖国」の狭間で生きる家族の抱えるかなしみ。それ故の知恵と強さ。



 宇宙から見た地球に国境線などない。国境線は人のこころと歴史が作り出す。この映画で描かれる「かぞく」は、彼らの歴史によって生み出されたこころの「国境線」を両足に挟んで立つ人々なのである。(★★★★)