虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「敬愛なるベートーヴェン」

toshi202006-12-16

原題:Copying Beethoven
監督:アニエスカ・ホランド


 「アマデウス」の冒頭。神父が精神病院へと向かう。狂人たちが彼を出迎える中、そこには「サリエリ」と名乗る、車いすの老人がいる。彼は告白する。「私はモーツァルトを殺した」と。


 「アマデウス」が長く愛されるのはなぜか。それは、モーツァルトの伝記を描きたいのではなくて、当時の有名な作曲家、サリエリの目線から、彼の曲が残らない未来、そしてモーツァルトの輝ける才能、彼の音楽が賞賛される未来を見つめることが「出来てしまった」男の、凡才から見た天才への愛憎を鮮やかに描いた作品だからだ。だからこそ、音楽に疎い俺のような愚かな人間の魂までもわしづかみにする、傑作である。
 こころのどこかで、この物語の構図はそこにある気がしながら、しばらくこの映画を見つめていた。


 作曲家を夢見る修道院暮らしの女子音大生アンナ。優秀な彼女は、大学に来ていた写譜の依頼を受けることとなる。その相手がベートーヴェンである。彼は「天才」であるがゆえの傲慢さや偏狭さを持っていたが、彼女が彼の譜面を写し取ったとき、ある一点を「修正」し、ベートーヴェンを驚愕させる。ベートーヴェンは、彼の音楽を知りながら、同時に彼に対して一切物怖じしないその気性を気に入り、写譜師として雇うことになる。


 この映画が映し出すのは作曲家の孤独である。
 音楽がスラスラと書き上がるタイプの天才がモーツァルトであるならば、ベートーヴェンは感情に響く音を「待ち続ける」タイプの天才。難聴になって以降、余計にその傾向はさらに強まる。だからこそ、彼の気性は時にどす黒いカオスを生む。彼は作曲という作業を「神との対話」だと言い切る。神の意志、神の奏でる音を聞き取るのだと。音はなんども生まれては死に、そしてその中から強靱な、魂を揺るがす音が生まれてくる。


 物語の冒頭で、俗に言う「第九」の初お披露目が迫っている、という話で、てっきり「第九」がクライマックスなのかと思いきや、物語はそこで終わらない。物語の中盤あたりで、第九のお披露目公演のシーンが描かれる。彼女は客として来ていたが、急遽ベートーベンの、指揮の手伝いをすることになる。このシーンの撮り方が面白くて、時折彼女の胸や太ももがアップになったり、音楽に陶酔するように眼を閉じる彼女の、官能的な表情を、カメラは捉えていく。
 ベートーヴェンは第九の初演公演以後、彼女を魂の底から欲するようになる。恋、のようでありながら、そういういう感情とは、少々違うのだろう、と思う。彼は彼女の肉体を求めているのではなく、孤独な神との対話を共有する人間としての彼女を欲したのではなかろうか。第九演奏後、彼は彼女に仕切りに言う。「アンナ・ホルト!これは2人でやり遂げた!」と。
 無論「ワカくてウツクシイ」女性であることも多少の要因はあろうが、むしろ、神と向き合う孤独な作業を、理解してくれる「共犯者」を欲しがったのではないだろうか。
 やがて、病に倒れ、死期を悟りながらも、「大フーガ」作曲をし続けるベートーヴェンベートーヴェンはその少し前、アンナの恋人を侮辱し、彼女は恋人に、彼に近づいたら別れると警告されていた。だが、ベッドに横たわる彼のそばには、アンナが座っている。最初は曲の指示を細かくしていた彼だったが、やがて脳になりひびく音楽に魅せられ、抽象的になっていく。だが、彼女は、彼の「わかったか?」という問いに笑顔で答える。


「わかったわ。」


 その時、彼女は彼と確かに、魂を共有したのだろう。


 「アマデウス」におけるサリエリの哀しみは、彼の死を望みながら、彼の才能を誰よりも愛していたことだろう。彼の未完の遺作「レクイエム」を写譜するシーンがある。それは自らが偽りで頼んだ仕事だったが、彼から生み出される音楽の素晴らしさに胸を打たれている。
 神父に告白するときの彼はとても誇らしかったにちがいない。神のそばにいる男と、一時的にしろ魂を共有できたのだから。罪の告白もそうだろうが、むしろ彼の最後の作曲に立ち会えた至福を語りたかったのではないだろうか、とも思うのだ。


 そして、恋人とも別れてまで、ベートーヴェンが死を迎えるまで側に居続けた彼女の至福は、サリエリの至福と重なっていたのではないか。そう思うのである。(★★★★)