虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「ウォルト・ディズニーの約束」

toshi202014-04-01

原題:Saving Mr. Banks
監督 ジョン・リー・ハンコック
脚本 ケリー・マーセル/スー・スミス


 ひとりの女性作家が、幼き日を思い返す。心の中には在りし日の父がいる。


 時は1961年。
 イギリスは、ロンドンに暮らす女流作家。長年新作はほとんど書いてなくて、メイドを雇うことも出来ず、家も手放さなければならなくなるほどに、経済状況はカツカツだけど、気はやたら強い。彼女の名はパメラ・リンドン・トラバース(エマ・トンプソン)。「メアリー・ポピンズ」シリーズで世界的に知られる作家である。
 彼女はひとつ大きな懸案事項を抱えていた。それは、その大事な虎の子、「メアリー・ポピンズ」の映画化を持ち出してきたアメリカのとある映画会社が持ち出してきて、彼女はそれを20年間断り続けてきたのだが、ついに代理人がそれを認めてしまったのである。理由は、長年彼女が映画化を阻止する盾としてきた、「実写化」以外はなし、そして彼女を「脚本担当」にすることを、ついに認めてきたからだった。
 実写化、脚本介入もオーケー・・・。映画化を阻止できぬなら、せめて映画を自分の納得できるものへと変えねばならない。大事な「メアリー・ポピンズ」を守るには、彼女が敵の本丸に乗り込むしかない。彼女は単身、アメリカへと飛んだ。


 彼女の敵の名はウォルト・ディズニートム・ハンクス)。この頃、すでにハリウッドの巨魁となっていた人物である。

 

 えーとね。見てない人に一言。とりあえず、映画「メリー・ポピンズ」見たことない人はとりあえず事前鑑賞必須である。見ているのと見てないのとでは、映画の理解度が天と地。


 ナニを隠そう自分も、本当にナニも考えずに「メリー・ポピンズ」未見のまま劇場に行ってしまい、見てから「あ・・・(察し)」ってなって、改めて映画「メリー・ポピンズ」を見てから、映画を再見することになったんだけど。
 
 名作として名高い「メリー・ポピンズ」であるが、今、改めて見ると、やはり旧いタイプのファンタジー映画で、なるほど、時折持ち出されるディズニーならではの、実写とアニメーションのハイブリッドという、CGのない時代の荒技で作られた映像や、ディズニー色をを強く意識したミュージカル演出は、もはやちょっとレトロな味わいというにも古さを感じさせてしまうのは否めない。


 それでも、この映画の中心にある、ジュリー・アンドリュースの愛らしさや、アカデミー賞作曲賞、歌曲賞を受賞したミュージカル・ナンバーは今も色あせずに、力強さを残しており、これこそが、この映画が今なお、時を越えて愛されている理由であろうと思う。
 しかし、それこそが、パメラの苦悩の始まりだった。なにせアニメはもちろん、ミュージカルの要素を認める気ゼロだったからである。


 パメラ・トラバースがアメリカ・ロサンゼルスについて、いきなりげんなりしたのは、ホテルの部屋を埋め尽くすディズニーキャラのぬいぐるみのお出迎えである。ディズニーはいきなり、自らが打ち立てた「ディズニーワールド」の中にパメラを取り込んで、映画の主導権を握ろうとするのである。だが、パメラはそのぬいぐるみたちを部屋から一掃すると、ロンドンから持ち込んだアクセサリーを持ち込み、臨戦態勢に入る。
 ディズニースタジオに乗り込んだ彼女がまず徹底したのは「トラヴァース夫人」と呼ばせることあった。とにかくスタッフとの関係に距離を取ろうとする。一方、ウォルト・ディズニーは「ディズニーさん」と呼ばれることを嫌う。とにかく「ウォルト」というファーストネーム呼びを相手に求める。そうやって、相手の懐に飛び込んで一気に懐柔するのが、ウォルト・ディズニーの手法らしかったが、パメラは徹底的に「ディズニーさん」と呼び続け、相手を寄せ付けない。
 そして、パメラが放った「愚かなアニメはお断り」という一言に、さすがのディズニーも臨戦態勢に入る。こうして、気むずかしい英国女性と、陽気で常に前向きだけど常に強気で自らの作り上げた世界に作品を取り込もうとする米国男性。一歩も引かぬ、摩擦全開の攻防がついに幕を開ける。


 ディズニーが映画の脚本を担当させたのが、生え抜きのスタッフである。ドン・ダグラティ(ブラッドリー・ウィットフォード)は元はアニメーターで、最初に脚本を担当したのが「わんわん物語」という人物。なので、とにかく発想がディズニー・アニメなのである。
 一方・音楽担当は後に数々のディズニー作品に関わることになる、手練れの新鋭・シャーマン兄弟(B・J・ノヴァク、ジェイソン・シュワルツマン)。


 彼らの中には映画の形は出来ていて、あとはパメラ・トラヴァースのオーケーをもらうだけだった。しかし、彼女は契約書にはサインせず、保留のまま脚本会議の主導権を握る。彼女はとにかく、あらゆることにノーを出す。一番彼女がこだわったのは、主人公である姉弟の父である、ジョージ・バンクス氏を冷酷な悪役にしてはならない、ということ、そしてこの映画を単なるハリウッド的ハッピーエンディングにしてはならぬ、ということだった。

 彼女は原作のエッセンスにないことはとにかく認めなかった。ウォルト・ディズニーという世界に名だたる「ブランド」を持つ男の強固な世界観に、作品が飲み込まれていくことだは阻止したかったのである。


 一方、プロデューサーとしての剛腕と懐柔策をいくつも繰り出しながら、それでも決して心を許そうとしないパメラに、ウォルト・ディズニーも悩む。ウォルトも会社の立ち上げからしてが順風満帆ではない。彼がふいに思い出すのはウォルトか関わったアニメーション、「しあわせウサギのオズワルド」製作時代の、権利関係に関するトラブルである。彼はユニバーサル・ピクチャーズに所有権を奪われ、プロデューサーであったリチャード・ミンツにスタッフを引き抜かれる苦渋を味わっている。
 作品を守る彼女の戦いは、そのことをウォルトに思い出させる。原作者が権利を主張するのは当然のことだ、とウォルトも思う。だが、それにしてもだ。彼女が作品について、敵地(アウェー)に乗り込んで孤独な戦いも辞さずに頑なに守ろうとしているもの。それが、ウォルトにはなかなかつかめない。
 その秘密は、彼女の過去にあった。


 映画は、彼女の父・トラヴァーズ・ゴフ(コリン・ファレル)や母・マーガレット・ゴフ(ルース・ウィルソン)たちと過ごしたオーストラリア時代のパメラの幼少期の記憶を、ディズニーとの攻防の合間に挟み込むかたちで、進行する。
 予想外の原作者の突っ張りに粘り強く歩み寄る、ディズニーとスタッフ達はついに彼女の理解を得るための足がかりとなる曲を完成させ、彼女もひどくそれを気に入るのだが、ウォルトが彼女に隠していた契約不履行の一件が露見して、パメラは激怒。契約書にサインせずに帰国してしまう。
 そして、ウォルト・ディズニーは単身、彼女への説得するために、ロンドンへと向かう。


 そして、ふたりきり、彼女の自宅で行われる、ウォルト・ディズニーの説得シーンこそが、この映画の白眉であり、ここで語られるエピソードは、ウォルト・ディズニーの内面により深く踏み込み、そして、彼が何故、映画を作り続けるのか、その根底に流れる魂に触れるものである。
 同時に、皮肉にもパメラの父親と同じような形で死を迎えることになるウォルトの、生涯消えぬ心の傷でもあった。


 人は何故、物語を作るのか。人は何故、映画を作るのか。


 1人の女性作家。1人の映画製作者が出会い、その譲れない軋轢の中で互いに少しずつ歩み寄ることで、そのことを思い出し、一方は作家として再生し、一方はプロデューサーとして、一本の映画を成功に導く。
 物語が生み出される神髄の一端が垣間見れる映画として、かなり面白い映画になっていると思います。大好き。(★★★★)