虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「<おもしろくない映画>と<おもしろくない小説>はどう違うか」について


 空中キャンプの伊藤聡さんが面白い問いを投げかけている。


<おもしろくない映画>と<おもしろくない小説>はどう違うか-空中キャンプ
http://d.hatena.ne.jp/zoot32/20101125#p1


 わりとボクは単純に答えがある。


 それは媒体の裏に流れる「物語」の多様性の差だと思う。


 例えば星新一を例にとるとわかりやすいかもしれない。
 星新一ショートショートはとことん作家の「人生」や「情緒」を排し、とことんシンプルに物語の強度のみで勝負した小説群であり、そこには「星新一」という作家の「物語」は基本的に徹底排除されている。しかし、だからこそ「小説」の強度のみで勝負できる。しかし、そこに物語のチカラが弱ければ、結局「小説」本体そのものが弱体化する。そこに「星新一」が抱える作家的な葛藤も決して顧みられることもなく、ただそこに「おもしろい小説」があり、または「おもしろくない小説」があるだけである。


 いっぽう映画はというと。そこには例えば「役者」がいて、「スタッフ」たちがいて、「脚本家」がいて、「監督」がいる。「役者」の演技経験と才能を賭けた演技や、「スタッフ」の技量の錬磨、「脚本家」が抱える「映画」という限定的な「時間」の中に如何にして「物語」を伝えるかという懊悩、「監督」の様々な事情を超えて、その「物語」や「見せたい」ものをどのように観客に見せきるか、という演出テクニックや映画を作ろうとする「意志」がある。いわば映画は、それら様々な物語の「集合体」で形成されているのである。
 それらの集合体が例え結果として失敗作だったとしても、それらの多様な「物語」を感じ取ることはできる。それはのちのちの映画に反映される可能性があり、その失敗を糧に、役者は成長し、脚本家は更なる研鑽をし、監督は監督としての経験をもとに、より自分の「意志」を映画に込めるテクニックを磨いていく「可能性」がある、からではないか、と思う。
 映画は終わっても、その裏にある物語は続いている。


 「ロスト・イン・ラマンチャ」という、「完成しなかった映画についての映画」があるように、映画にはいくつもの物語が横たわっている。「おもしろい映画」とはそれを考えさせないほどに「物語」の強度があるのだし、「おもしろくない映画」はその裏にある物語を考えさせるほどに、「物語」そのものの求心力が弱い、とも言えるのだけれども。