虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「K-20/怪人二十面相・伝」

toshi202009-01-10

監督・脚本:佐藤嗣麻子
原作:北村想



 うん。あのね。嫌いじゃないわ。


 不調法な映画、という意味でけなすことは出来る。金城武の日本語演技はやっぱ辛いわー、とか、松たか子クラリス気取りなのはどうなのか、とか、いくらなんでもその明智はねーんじゃねーの、とか言えることはあるんだけど。
 この映画は少なくとも手は抜いてないし、やれることはすべてやった上でこの結果なのだと、俺は思った。そういう映画に俺は、細かい点をとやかく言うことは、あまり意味がないのではないかと思う。


 ちょっと映画の話から離れるんだけれど。


 今日本映画が悪い方向へ行っている。という言説が、ほぼ確定事項のようにまかり通っているんだけれど、俺はね、必ずしも希望がないわけじゃないと思うんだよね。だって。映画は作られてる。そのことが重要だ。作りたい人間が作ること。そのことが大切だと思う。


 映画の出来不出来、というものを、映画好きを標榜する人は云々しがちだ。
 しかし、映画の出来不出来が映画を決定するのではない、と俺は思う。映画というジャンルは「柔軟性」のジャンルだと思う。作り手の思い次第で如何様にもなる。時に細工がびしっと決まる時もあれば、細工が不発になることもある。思いが空回りすることだってあるはずだ。作家の「映画に対して払った時間」に敬意を表するならば、そういった「弱点」も込みで「映画」だと思うのである。
 問題なのは作り手の「熱量」なのではないか、と思う。映画を作ること。その熱量を失わなければ、出来不出来は、実はあまり問題ではない。少なくとも俺は出来不出来のみで「映画の価値」を測るなら、俺は映画を見続ける意味などないと思う。
 美しい映画だけを見たいなら、それこそ「過去の名作」だけ見ればいい。作家の今は、その「不細工」な部分にあるはずだからだ。


 佐藤嗣麻子という人の熱量がありやなしや。俺はものすごく彼女の熱量を感じた。
 この映画の「希望」は佐藤嗣麻子という監督に、全力で趣味的世界に惜しみない技術と予算をつぎ込める環境を与えたことだ。それが成功したかどうか、といえば正直難しい。だけど、彼女はそのチャンスの中で己の世界や趣味を作品に横溢させた。少なくとも彼女は本気でこの映画に取り組んだ、ということはスクリーンから伝わった。
 身分社会という構造の中で、アメコミ的なヒーロー誕生の物語を、日本を舞台にして作る。そんな無茶なことを、監督は目指したのだと思う。ちょっとした場面でも、決してガジェットや舞台設定に手を抜いた様子はなかった。金城武のアクションだってなかなか頑張ってたし、その頑張りは決して無駄じゃなかったと思う。


 キャスティングのセンスがちょっとおかしかったり、脚本や世界観のディテールがおかしかったりするところはたくさんあったとして。じゃあこの映画が、憎むべき駄作だとは決して思わない。少なくともこれほどのビッグバジェットの映画で自分が目指した「世界観」を押し通したことは、彼女にとって大きなプラスになったはずである。
 その中での「反省」を踏まえつつ、次のステップに進んでくれれば、佐藤監督の飛躍につながっていくと思う。それを信じるも信じないも受け手の器量ひとつではないか、と思う。(★★★)