虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「トウキョウソナタ」

toshi202009-01-14

監督:黒沢清
脚本:マックス・マニックス/黒沢清/田中幸子



 六本木で英語字幕版を鑑賞。


 家族って、意外とホラー。という映画なのかもしれない。


 「歩いても 歩いても」のような繊細なかたちではなく、この映画はもう少しわかりやすい形で、家族が壊れかけている。父親はリストラされて、再就職もままならないまま、家族には体面上の父親を演じ続け、未来が見えない不安で押しつぶされそうになっている。
 長男は父親のいる時間には家に寄りつかず、深夜バイトで生計を立ててはいるが、その現状に不満を抱えている。そして小学生の次男は、学校で起こした自分の一言で学級崩壊させてしまった負い目を感じながら、それを晴らす何かを探してる。
 母親はそんな彼らをただ優しく迎えるが、報われてはいない。


 この映画の面白いところは、黒沢清監督が他人の脚本を叩き台にして映画を撮ったことにある。


 つまり、元々この映画は「家族の崩壊の危機とその先の希望」を描いたホンがあって、その基本ラインを踏襲するかたちで黒沢清がリライトしたのがこの映画の脚本なわけだけれども。


 この映画の家族は、ひとつきしみが増えるたびに「ピシッ」とひびのようなものが入る。それを黒沢清が演出するんだけど、はっきり言ってそれがものすごくわかりやすく「ピシッ」という音がする。・・・いや、実際音がするんじゃなくて、演出で「げげっ」と驚かせる「なにか」が起こる。
 そのたびに俺は「おおうっ!」とか「うわっ!」とか声を上げちゃって恥ずかしいことこの上なかった。父親が、同じくリストラされた友人の家での夕餉をごちそうになった後、娘がなにげなくはなった一言の衝撃とか、母親が車をショールームで物色した帰り道に見てしまったものとか、ドラマの要所要所であの・・・さりげなく唐突に現れる、「ギシッ!」となにかがきしむ「音なき音」が、俺の心に響いて思わず声を上げてしまうのだ。黒沢清は進化している。


 その家族の崩壊を告げる使者として登場するのが、役所広司なんだけど、彼の存在感はやっぱりすごくて、その役が「彼」だと観客が認識するシーンで思わず大爆笑。さりげないうっかりぶりが予想外すぎる。いままでホラーの演出を笑いに転化する、黒沢清のコメディ演出の「進化」もこの映画の見所である。


 長男が、次男が、それぞれ自分に「カクメイ」を起こそうとし、母親は、あるきっかけから、壊れかけた家族から逃れるように、エクソダスを試みる。


 「世界」に対して、自分たちはおそろしく無力である。それでもなお、世界と対峙しなければならないのならば、還る場所が要る。ジタバタしてもがいて、それでも行き着けない。デッドエンド。それでも生きていかなければならない。彼らはデッドエンドから帰還し、最後に集う家。
 てんでばらばらな「個人」が集う。それでも家族なのだ。これから何かがあるかわからないけれど、「希望」はあるじゃないか。次男が弾くピアノ曲が美しく響くクライマックスで、映画は高らかに、そう宣言する。
 セリフに出していうのではなく、美しい旋律に乗せて。心の中にすっと染みいる希望。その旋律は、同時に黒沢清監督がこの映画で、新たなる扉を開けたことへの祝福にも見えた。(★★★★)