虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「路上のソリスト」

toshi202009-06-04

原題:The Soloist
監督:ジョー・ライト
原作:スティーブ・ロペス
脚本:スザンナ・グラント


 「恩寵」という言葉がこの映画で何度か出てくる。辞書で引くと、それは「(神、または君主からの)愛、めぐみ」とある。



 音楽と「神」という概念は、分かちがたくあるのは、その「クラシック」と呼ばれるまでに後世まで聞かれ続ける音楽は、時代を超えた「永遠」にも等しい強度を備えているからであり、その「音楽」は神が与えし「ギフト」を持ち、なおかつ神の「音」を強く求め続けるものにしか与えられない、という概念から来ている、と思う。
 「アマデウス」や「敬愛なるベートーヴェン」などでも、「音楽家」と「神」は分かちがたくあり、偉大なる作曲家は「神の愛」を受けた者である、とされる。


 新聞記者でコラムニストのスティーブ・ロペスが、偶然街で出会った男は、「二つの弦」のバイオリンを弾きこなす「自称・ジュリアード音楽院出身者」のホームレス。名をナサニエル・アンソニー・エアーズという。
 彼の演奏を聴き、興味を持ったロペスがナサニエルについて調べてみると、卒業はしていないもの、一時在籍しており、退学になったのだという。音楽のエリートでありながら、ホームレスとなった男の人生。その出会いに天啓を受けたと感じたロペスがナサニエルについてのコラムを書いたところ、反響があり、ある老婦人から彼にチェロが贈られてきた。ロペスは彼にチェロを渡す交換条件として、路上生活者支援団体の施設で弾くことを持ちかける。


 半分は好奇心、半分は職業意識の狭間で、ロペスはナサニエルという男の人生へと近づいていく。


 ナサニエルは、音楽教師が「いずれ彼の音に世界がひれ伏す」と断言するほどの才能を秘め、彼もまた青春のすべてをチェロに捧げた。彼のチェロの練習場は美容室を経営している姉の店の地下だった。彼はひとり、孤独に音楽と向かい合い、彼はそこに神の愛を感じていた。
 やがて、彼は名門・ジュリアード音楽院を優秀な成績で合格し、そこでオーケストラを学び始める。


 だが、音楽の「神」と向かい合い続けた日々が、彼の心をむしばみ始める。


 孤高に音楽と向き合うことは、協調することで高め合うオーケストラには不向きである。彼の魂は「内なる音楽の神」に支配され、音楽と向き合えば向き合うほどに周りとの乖離が広がっていく。やがて社会生活すら困難なほどに追い詰められたナサニエルは、理解者である姉の下からも去り、路上生活を送ることになる。


 類い希なる「ギフト」を持ちながら、孤高を保って社会からドロップアウトした「天才演奏家」と、「結婚」への挫折から人生や仕事への情熱が消えかけていた人気コラムニスト。彼らがともに抱えているのは「愛し、愛される者」からの「失望」である。
 ナサニエルは「音楽の神」、ロペスは「かつての妻で、同僚」のメアリーである。


 ロペスはナサニエルから好意を口にされると、それに「恐怖」を覚えるようになる。
 かつての結婚生活で「愛」が「失望」へと変わることで受けた傷を抱えたまま、「何かを愛すること」を無意識に拒み続けていた。その心の障壁を越えて彼の中に「入って」きたのは、「音楽の神」の「恩寵」を受けた男の奏でる「音楽」である。
 だが、人と向き合うこと、誰かを「愛し」、または「愛される」ことを忌避する心は消えてはいない。


 それはまた、ナサニエルも同じである。彼は神の愛が失われることを恐れている。だから、彼は自らが強固に作り上げた枷から出ようとはしない。彼は路上で弾く分には存分に才能を発揮する。にも関わらず、コンサート会場を用意され、その場に例え行ったとしても、本番中に逃亡してしまう。
 だが。人口400万人の都市で、偶然出会って生まれた絆は「友情」へと化学変化し、静かに確実に、彼らの間にある「境界」を消していく。


 この映画では度々、上から視点のカットがある。それは人を等しく見ている神の視点だろう。音楽は誰の心にも等しく響く。偉大なる音楽は宗教も人種も国境も、そして、人の心の壁をも越えていく。この映画は、神の「ギフト」によって「つながった」、奇妙で、そして必然の友情を描いているのだと思った。その友情もまた、真に「音楽の神」の与えた「恩寵」なのかもしれない。(★★★★)