虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

更新され続ける世界で5年

 生きるとはなにか。


 それは「更新」する営みを続けることである。



 1年経つと人間は細胞的には完全な別人なのだという。食べるという行為を通じて人は常に細胞を入れ替えて生きている。だから、今日のあなたと明日のあなたは、外見上大変よく似た別のモノになる。のだそうだ。
 生きている、ということは、常に変わり続けなければならぬ宿命を背負うことである。私たちは常に更新される「肉体」というデバイスを与えられ、その中で同じようで違う日々を生きている。つまり、変わっていないようで世界は常に移ろい、移ろいこそが世界の宿命である。


 人間というものが「変わらないモノ」を欲するのは、自分たちが「変わってしまうモノ」であることを本能的に知っているからなのかもしれない。


 はてなダイアリーで書き始めて5年になる。5年。5年。あのころの私はもはやこの世にいない。今は今の私がいる。生きているということはつまり、「今」「この時」の私の残像がこのブログの5年分の連なりなのだ。
 そんなことをぼんやりと考えていたのにはわけがある。あのころの私といまの私。変わっていないつもりでも変わってしまうのだ。そのころ、呼んでくれていた人が、今はまったく読まなくなってしまっていることもあるだろうし、数日前まで存在すら知らなくて、初めてこの文章でこのブログを知る人もいるかもしれない。そもそも、このブログが5年も続くなどと、始めた当初は思いもしなかった。


 文章というのは言ってみれば、「今」「この時」の私をとどめるには一番適しているのではないか、と思う。数年前の私の日記を久しぶりに読んだら、恥ずかしさのあまり悶絶した、ということが何度かあったが、しかし、それは今は覆しようもない「当時の私」が「デジタルの岸辺」に打ち上げられているのだろう。
 そんな僕が、一貫して書いてきたことは、「未来の自分へ」の話である。「今日はこんなものを見た」「今日はこんなことを感じた」。虚馬ダイアリーというブログは、そういう「未来の私」に「今」の私が残した「経験」の「記録」であり「残像」である。


 だから、このブログはそもそも映画評論ブログなどではなく、ただ、単に、私のブログである。ほんとはアニメや漫画、ドラマなどについてだって書いていきたい。「物語」がある限り、なるべく多くの物語に触れたいと、欲している。単純に時間がないだけで、


 そしてもうひとつ。5年間。私が信じ続けていたのは「更新されるセカイ」への希望だ。良きにつけ、悪しきにつけ、常に更新されるニンゲンは、物語を生み出し続ける。小説、映画、アニメ、漫画、演劇、ドラマ、etc。
 物語を生み出す人々もまた、常に「更新」しつづけている。昨日より今日、今日より明日。進化したいと望みながらもがいているはずだと思う。
 この5年の間に、一ブロガーとして尊敬していた伊藤計劃さんが作家デビューを果たして、自らの「子供」といえる作品を残して、そして今年お亡くなりになったことは、ぼくにとって、いろんな形で影響を受け、衝撃を受けた。ニンゲンというものは、「こんなことが起こせるんだ」と思わされた。
 更新される世界で。僕らは生きている。そしてそれは、決して僕らの思い通りになど、なりはしない。そんな理不尽でどうしようもない世界で、もがくなかで、今、せいいっぱいの物語を、生み出そうとしている。そして、その「物語」は、確かな「生」の残像として、生き続ける。


 
 「物語至上主義」と掲げて、結構経つ。それは、つまり、それは「物語」の出来不出来ではなく、「物語」を生み出そうとするニンゲンと、「カレラ」をとりまく世界を信じようということなんじゃないかな。と、このブログをつけ始めて5年目という「現在」の私は思ったりしたのである。








 今現在の私から、未来の皆様へ。「これからもよろしくお願いします。」