虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「神童」

toshi202007-04-23

監督:萩生田宏治 脚色:向井康介 原作:さそうあきら

 
 とあるボート乗り場。ボートに寝そべっている男に少女が呼びかける。人形を取るために乗り込んできた少女は、男に何をしていたのか、と訪ねる。男は答える。「音を聞いていた」と。鳥のさえずりや、風の音を。
 それが天才と言われる少女・うたと、音楽大学を受けるために浪人している男・和音の出会いだった。



 人間にとって表現をすること。というのは、そのまま「生きる」ということにつながっていく。芸術だけではなく、会話や、恋愛、労働、政治活動、人間は世界の中に「何か」を残したくて動いている。表現はつまり、この世になんらかの形で関りたい、という様々な思いから来ている。少女が見失っていたのは、その「思い」を持ち得ないことだった。「なんで表現せないかんのか」という根本的な問いだった。
 彼女は喋る前にピアノが弾けた。文字を覚える前に楽譜を読めた。ピアノの才能を、親も、他人も、自分でさえも感じている。だけど・・・何のために弾くのか。彼女はピアノから逃げ続けていた。
 その彼女が偶然、出会った男の言葉、そして彼の凡庸な、だが素直に「弾きたい」という欲求にあふれた音に引き込まれるように、商店街の中にある彼の家に上がり込み、見事な演奏で偶然通りがかった人々を、豊かな音で魅了する。


 彼女は生理的に拒絶するのは、母親の自分の才能に対する執着だった。
 高名なピアニストだった夫が公演先で行方不明となり、愛する人も家も財産も失った母親にとってはうたの才能こそが、生きるよすがだった。母親は彼女をピアノコンクールに出して、賞金で家を買い戻すことを望んでいた。それは、父親の形見のピアノを愛するうたにとっても、
 しかし、母親の執着は時に行き過ぎと感じられた。うたに平手ではたかれると、母親はまず、叩かれた理由を問うことも、叩かれたことをとがめるでもなく、「手は大丈夫?」と聞いてくる。うたは、息苦しいものを感じて、無意識に自らの手に触れようとする母を、拒絶してしまう。母親は、ついに形見のピアノを売り払ってしまう。
 そんな彼女が、和音の前では素直に演奏が出来た。自分を出せた。和音も、うたが自分のピアノから、自分では出せなかったような豊かな音を出してくるうたに引っ張られるように、ピアノに没頭していく。



 和音のピアノへの気持ちが、うたに伝染し、彼女の天賦の才能が、和音を自らが思ってもみないような高みへと導いていく。うたは、やがて、その才能を見事に開花させる場で成功するが、やがて、彼女を難聴という悲劇が襲う。
 豊かな音の中で生きてきた彼女が味わう「無音」という名の地獄。そんななか、彼女が向かうのは、かつて父親が連れて行ってくれた「ピアノの墓所」。そこに、父親の形見のピアノが今また、そこで眠っている。父親は彼女と同じ境遇に立ったとき、死を選んでしまった。自分は、どうだろう。
 そのピアノに触れたとき、彼女が見たものは・・・・彼女の望むもの。音。そして、響き合う人。彼女だけが聞こえる、幻の連弾は彼女の耳の中に鮮やかに響く。


 闇の中に降り注ぐ光のように、ひときわ美しい連弾。そして彼女自身が音楽になっていく。浪人生と中学生の淡い友情がやがて、恋愛とは異質の関係で魂が結びつく。子供っぽさと、艶っぽさを軽やかに往復する成海璃子の存在感や、見事な音楽シーンを萩生田監督は見事に活写し、それらがさそうあきらの原作を叩き台にしながら、別のアプローチからその核心へと近づこうとする物語の、ぶっとい芯となって響き合う秀作。(★★★★)