「ゆれる」
監督・脚本:西川美和
兄弟がいた。兄は、真面目で、要領悪くて、モテなくて、田舎で家業のガソリンスタンドを手伝っていた。弟は、奔放で、要領良くて、モテモテで。さっさと冴えない街を出て、カメラマンをやっている。
弟が、母の一周忌で帰郷。家族と再会した。
その出来事は、「ゆれる」橋の上で起きた。二人にとっての幼なじみ。弟の一夜の相手。兄の思い人。
そのひとが、橋からおちて。死んだ。
そのとき、兄は橋の上にいた。そのとき弟は、河原でその光景をつぶさに見た。
事故。そのはずだった。だが、兄は、ガソリンスタンドでチンピラに暴行を働いて逮捕され、そして、自供する。その女(ひと)の死は、自分のせいだと。
こうして法廷の幕は開く。
ゆれて、落ちる。あらゆるものがこぼれ落ちる。
そこから感情がゆれて。こころがゆれて、橋がゆれる。裁判ゆれて、証言ゆれて、おちておちておちて。
そういう映画である。
嘘と現実の狭間で、こぼれ落ちるものを必死にそれらしいものを拾い上げる。人はそれを真実だと、そう思う。しかし、真実はひとつじゃない。真実はいつもゆれている。残像をつくりだす。愛しさと憎しみと。現実と虚構と。嘘と真と。被害者と加害者と。
兄と弟と。
対になっていたものが、そのゆれるものなかからこぼれおちる。こころがゆれて、そのゆれは次第に連鎖しあっていく。その揺れは、一つの事実に残像を植え付け、見る物を惑わすのである。
その「ゆれ」の原因は、常に「兄弟」という絆によって、互いに向き合わなければならない二人の男の関係から紡ぎ出されていく。兄は、弟の自由な生き方と自らを比べて、その境遇に深く絶望し、弟は、兄のその堅実に生きてきた姿に、みずからの空虚さを深く認識する。向かい合うたびにこころがゆれているのである。
兄の裁判という「法廷劇」を縦糸にしながら、兄と弟は、向き合い、揺らし合う姿を横糸に、こころのゆれによって、法廷もゆれていく。その連動がまさに見事。ふたりがゆれるたびに、映画が躍動する。一方の心のネジが横に振り切れるまで。
振り切れ、瓦解していく家族と、兄弟。それでも、最後にこの映画は希望を残す。それを甘えというものいよう。嘘だと指弾する者もいよう。しかし、彼らが傷つけるほど「ゆらし」合ったのは、結局兄弟であったからだ。兄と弟である。それでいいじゃないか。
揺らしすぎて壊れた橋の修復の可能性こそ、この映画の真に描きたかったことのような気がするのである。(★★★★)