虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「立喰師列伝」

toshi202006-04-08

監督・脚本・原作:押井守
公式サイト:http://www.tachiguishi.com/


 宮部みゆきの傑作長編に「火車」という作品がある。この作品は休職中の刑事が遠縁の男性に頼まれて一人の女性を捜すうちに彼女の哀しい現実が浮かび上がる物語だが、この物語が真に凄いのは、彼女自身はラストまで登場しないにも関わらず、我々はその時点で彼女の存在をすでに認識している、ということだ。そしてそこに浮かび上がる幻影はなぜか儚くも美しいそれだ。
 そして真実を知っていく過程で、その刑事は精神的に彼女に恋していた、とも言えなくはない。


 幻影はかくも美しい。いや、究極の美とは幻影の中にしか存在しない。


 さて、押井守である。押井守は、見えぬものを愛する人だ。この映画において、自身のライフワークとも言うべき「立喰師」の物語を通じて、彼自身が通過した戦後そのものを浮かび上がらせようとする。だが、それは明らかに我々が学校で習ったり、歴史の本で読むそれとは根本的なところで異なる。
 月見の銀二、ケツネコロッケのお銀、哭きの犬丸、といった立喰師たちが「実在した!」と言い切ることで、歴史の陥穽の中に息づいていたものを浮かび上がらせようとする。そしてそこには、押井守が信じてやまない、平穏な日常の中に潜む、破壊者たちの幻影がゆっくり立ち上がる。そして月見の銀二はラストにこう言う。


 「I'm standing on the moon!」


 うる星やつらは幻影であるがゆえに面白おかしい世界であり続けると喝破し、草薙素子は幻影である人形使いと結ばれ、素子が電子の世界の幻影になったがゆえにバトーは彼女を追いかけ、後藤隊長もまた、日常の向こう側にいる幻影の破壊者たちを認識する。我々からしたら、押井守の描く主人公たちは幻を追いかけている「ロマンチスト」、もっと平たく言えば「きちがい」、と言い切ることは可能だ。そして幻影は、現実では時とともにかくもはかなく消え去る運命だ。
 しかし、押井守押井守で、「幻影」こそが正しい、と言い切る。そしてその幻影は「現実」を浸食しはじめる。
 押井守が映画監督として特異なのは、その幻影をと「幻影」として観客に認識させながら、それを現実として裏返して、我々の眼前にそれを突きつけるところだ。「幻影」を認識させるために彼が観客に対して用いるのは、徹底したテキストの暴力である。映画監督としての押井守は、ハードパンチャーであり、一方的に乱打することで、その強さを示す。映画という「物語と対決する場」において、それは大いに効果的である。


 この映画の戦後は、押井守が信じてやまぬ「戦後」である。それは世の中に埋もれて消えてしまったそれとは基本的に異なるが、それを押井守が再構成してみせたひとつの形ではある。
 だが、時が進み徐々に都市が漂白されていくに従い、この映画は徐々に求心力を失っていく。それは歴史の陥穽にいた反権力な日常の破壊者たちが、かくもいなくなってしまったことに起因する。現実には吉野家は我々の駅前に堂々と存在し、ハンバーガーショップもまた、その偉容を日常の世界にさらしている。
 その現実が、押井守の幻影を生み出す力を持ってしても、覆いきれぬシステムとなって立ちはだかり、幻影はシステムの前に敗北する。


 押井守が立喰師に求めた反権力の幻影はひとつまたひとつと消え去り、日本という社会へのいびつな依存心だけが、我々の現実を覆い始めている。それゆえに、月を背に立つ月見の銀二は誰よりも美しい。はかなく消え去る月見そばの景色のように。(★★★)


追記:あと犬の受難に関する考察は、さすが犬萌えの権化らしい切り口で、物語としては明らかに脇道なのに力入りまくってる辺りは、さっすがやなあ、と感心したことを思い出した。