虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「スカイ・クロラ」

toshi202008-08-02

監督:押井守
脚本:伊藤ちひろ
原作:森博嗣



 押井守のフィルモグラフィで最も大作にして、最も個人的な作品だった前作「イノセンス」から4年である。


 その次がこの「スカイ・クロラ」となる、わけ、だ。これまで見てきた感想で、本作が如何に「押井守」であるかについてはある程度語り尽くされてきているので、この映画がいままでのフィルモグラフィと何が違うのか。について考えておきたい。


 本作においてもっとも押井守という作家がたどってきた流れで、一番驚いたのは「西尾鉄也」を作画監督に置いたこと。西尾さんの画ってなんとなく押井作品では浮くタイプの画だとずっと思っていたんだけど、それは止めの画よりも動画の方が面白い人だからで。ここで読み取れるのはなにか、というと、まず「人間」を描くことから始めよう、ということなのだと思う。「当たり前じゃん」と言われるかも知れないが、押井守という作家が「人間」の生臭さを嫌ってきた作家である。なにせ実写作品「アヴァロン」で主演女優の顔をCG処理で自分好みにいじくる人なのである。
 その人が、あらためて人間そのものを見つめ直そうとしている。


 伊藤計劃さん言うところの「ビューティフル・ドリーマーSIDE-B」という言葉があるように、当たり前のように振る舞っているはずの自分の生が、レコードで針が引っかかってループしているかのように、ある地点からある地点の間を繰り返している人々の話である。しかし、「ビューティフル・ドリーマー」と決定的に違うのは、登場人物のだれひとりとしてその生を心から肯定してないことである。
 「ビューティフル・ドリーマー」は繰り返し終わらない世界を望むアニメファンに対する痛烈な皮肉でもあったわけだが、それと同時に繰り返しなどいやだ!という押井守のこころの叫びだったような気がする。そこに楔を打ち込んだのが「御先祖様万々歳」だと俺は思っているんだけれどもね。



 繰り返す日常を破壊したい。逃げ出したい。それにはどうすればいいのか。押井守が作品を作り続ける中で、彼が明確にしていったのは「涅槃へ行くこと」だった。と俺は思っている。彼の心のなかにある「厭世志向」とそれに付随するなんとも言えぬロマンティシズムは、前作においていよいよ濃厚になった気がする。押井守にとって繰り返しの日常に混沌を運んでくるのは、いつだって「涅槃」にいるだれかだった。帆場も、柘植も、人形遣いも、草薙素子も。いままで、彼らのいる「涅槃」は常に「予感」でしかなかった。
 だが、前作で押井守の分身である「バトー」はついにその「涅槃」へと足を踏み入れていった。「涅槃」へ消えていった素子に遭うために。


 さて。その流れでの「スカイ・クロラ」である。
 なんの記憶もなく、ただまっさらに本作の主人公であるカンナミは、ロットストック社の飛行場に降り立ち、平和な世界で、大衆の平和のありがたさを噛みしめたい欲求に応える「ショーとしての戦争」という戦場を、なんの迷いもなく受け入れる。それはなぜか。・・・っていうストーリーラインなのに、宣伝であっさりネタを割ってるのでアレなんだけど、そうつまり彼は、年もとらない、そして戦死しない限り死なない「キルドレ」だからなんである。
 生き生きとした戦場と、どんよりとした日常。おれは原作を知らないんだけれども、本作には今まで押井守作品にないものがある。予感としての「涅槃」である。


 ここではないどこか。この作品にはそんなものがない。ただ基地があり、その近くのダイナーや享楽施設があるけれども、彼らは基本的にそこから逸脱しようとはしない。彼らは自分の運命を記憶はなくとも無意識に感知し、受け入れている。そんな彼らの繰り返しの人生を見つめ続けてきた女として「草薙水素」は絶望を抱えながら生きている。彼女は「とびきりのヤツ」で死なずに生きてきた。記憶も経験もプールされる一方だが、若さだけは保ち続けている。彼女が重ねた「経験」や「年月」は、彼女を見つめ続けてきた「女整備長」や、彼女の「自称・妹」草薙瑞季らの存在で、匂わされている。
 そんな彼女は常に「死の憧れ」とともにあるが、それは「ここではないどこか」に行きたいからではなく、自らの人生を「リセット」したいという思いからである。しかし、終わらせるならば、愛する人の手にかかりたい、という倒錯した思いも抱えている。


 主人公・カンナミは、本来仮の名であり、そして本当の名前でもある。極端な話、「アアアア」という名前でもそれは「彼の名」である。彼の人生は戦争を終わらせない限り変わらない。
 彼は何故、自分が彼女が自分にただならぬ感情を抱いているのか、そして自分は彼女を憎からず思っているのか、その「発露」を知らない。ただ、「思い」だけがある、というのは面白い。


 しかし、カンナミは彼女が死ぬことを否定する。彼女が、彼女こそが自分が生きてきた人生をまるごと抱えてくれているからである。それは「繰り返し」からの脱却ではなく、「繰り返し」という運命を受け入れつつ、その運命の中で世界を変えるという明確な意思表示である。予感だけの涅槃に憧れてきた男が、涅槃を一回りして戻ってきて、それでも彼は目の前に「繰り返し」の日常があることに気づいたのだ。
 それはまさに、押井守がたどってきた道筋そのものなのだ、と思う。


 永遠を生きる少女と繰り返しを生きる青年は、その運命の守護者である「ティーチャー」に向かっては、死んでいく。「KIll my farther」。その言葉とともに、人生を繰り返す。永遠に倒せない男*1かもしれないが、それでも、いつか。
 かくして、押井守は繰り返しから逃げ出すのをやめた。いつか終わる「繰り返し」をただよりよいものに変えていく。この映画は若者ための映画でありながら、同時に押井守その人へも向けられている映画なのだと思う。(★★★★)

*1:その父は誰か。・・・うん。そうだね。プロテインバヤオだね。