虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「Vフォー・ヴェンデッタ」

toshi202006-04-24

原題:V for Vendetta
監督:ジェームズ・マクティーグ 脚本:ウォシャウスキー姉弟兄弟


 ウォシャウスキー兄弟?の脚本最新作はあまりにロマンチックで甘美である。どこが?といわれそうだが、なんつったって、拘束されたがりのMっぷり溢れる妄想の映画なんですもの。


 この映画で重要なのが、世界観の造作である。この映画は、ファンタジーではなく、現実に妄想を浸食させた「もう一つの現実」として描いていることだ。それは、終末近い世界ゆえに自然発生的に出来上がってしまったものとは少し異なり、この映画自体が、原作を叩き台にしてウォシャウスキー兄弟の妄想が浸透した「現実」なのである。
 マトリックスシリーズで描かれた、疑似世界も現実世界もともに「現実」そのものであることには変わりなかったように、今我々がいる「現実」*1の向こう側にもう一つの未来としての、2020年における悪夢のロンドンを「あえて」生み出したのだ。つまり、彼らがアーキテクトした「疑似世界」である。


 ゆえにこの映画の管理社会はどこか妄想的であり、それゆえに極端である。独裁者は民衆に対しても部下に対しても徹底した恫喝によってギリギリと締め上げ、そして徹底した異種排斥と盗撮・盗聴・マスコミ操作で国民をひとつの方向に向けようとする。そしてそんなんで「成り立っちゃってる世界」だ。
 これを「ナチス」の模倣という人がいるけれども、ヒトラーだってここまではしてない。ドイツ民族に甘美な夢を与え続けてきたからこそナチズムは存在し得たわけで、ここまでシステマチックに民衆を拘束したわけではない。本作の独裁はどっちかというと王政による暴力政治に近い。


 しかし、それこそが兄弟の妄想が浸食しきった「現実」ゆえにオッケーになっている。そして、現実を妄想の中にぶっ込む荒技は、押井守の十八番だ。ウォシャウスキー兄弟はそういう意味では押井守の直系の作家と言える。・・・まあそのことは「マトリックス」シリーズですでに明らかなところだが、


 だけど、手法に通底する思想は押井監督と真逆である。押井監督の場合、テロリズムは美しく敗北していくが、ウォシャウスキー監督の場合美しく勝利する。追憶の中に消え去っていく美学と、永遠に人々の記憶に残る美学。それこそが、「9.11」以降の時代と、見事にリンクしていく。
 押井監督の最新作「立喰師列伝」がテロリストの敗北の季節を知る者の追憶の映画だとすれば、本作はまさに現代の作家の映画なのである。


 ま、所詮妄想と言ってしまえばそれまでではあるのだけど。(★★★)

*1:前作ではこれが「疑似世界」であったわけだけれども