虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「ブラッド・ダイヤモンド」

toshi202007-04-16

原題:Blood Diamond
監督:エドワード・ズウィック
脚本:チャールズ・レビット


 冒頭。唐突に、そしてあまりにもあっけなく人々が死んでいく。血が流れる。逃げまどう人々。阿鼻叫喚の中、離ればなれになる家族。


 当たり前のように行われる虐殺。命の軽いアフリカでは、我々の常識を遙かに超えた苛烈さでそれが行われる。資本主義の台頭が、悲劇を底なしのものにしていく。
 ダイヤモンド産出が確認されたとき、暴虐はさらなる拡散を見せる。そんな国を舞台に、ひとつのダイヤを巡る様々な思惑が入り交じるドラマが展開する冒険活劇である。息子を救うために死地を行く漁師と、彼の埋めたダイヤ目当てに近づく元傭兵の白人。彼ら二人の苛烈な道行きを、「紛争ダイヤ」の真実を追う女性記者の視点も絡めて、ひとつの「物語」として提示してみせる。


 いろんなところで見た感想で、ダイヤモンド不信の声を上げる人がいた。うんまあ、正直な感想だし、俺もそう思う。だが、だがこの映画が娯楽という名の中で描こうとしたことは、ダイヤに止まる話だろうか。この映画が訴えているのは、ダイヤだけじゃない。我々はいつだって、世界とどこにでもつながっているのだ、ということだ。
 この遠く離れた場所。あまりにも違う場所。だが、ダイヤひとつにしても、我々はなにがしかの形でこの映画が題材として扱っているのは「紛争ダイヤ」を巡る物語。出所が汚れてようが汚れてまいがダイヤはダイヤだ。そのことに変わりはない。それでも我々は時に、ディスプレイの向こう側のそ「それ」に「意味」を考えなくてはならないときが、あるのかもしれない。
 ただ・・・ただ。うん、そうだな。言葉にしようとしても難しいが、ことは「ダイヤだけの問題じゃない」のではあるまいか。資本主義という大河が押し流していくもののひとつが「ダイヤ」なのであって、問題は「それ」だけではないだろう。


 遠くの世界で起こる紛争一つにしても、我々はなにかしら連関し、つながっている。「不都合な真実」でアル・ゴアは、砂漠化や環境破壊が我々の生活と必ずしも不可分である、と明快にしてみせたように、我々もなんらかの形で、悲劇の拡散に手を貸している可能性を、この映画は説いているのではあるまいか。
 アフリカ生まれアフリカ育ちの主人公が、なぜダイヤを望むのか。その過去は陰惨なものだったことが明かされる。その詳細な背景は明かされなかったが、それがダイヤに代わる別のなにかだった可能性は濃いだろう。彼は白人でありながら、アフリカ大陸という過酷な世界で生き抜かざるを得なかった。


 目の前で起こる陰惨なことをただ写し取るだけでは真実にはたどりつけない。そこには物語がいる。女性記者は人々が真実に共感しうる物語を求めていた。男が最期に女性記者に与えたのは、まさに「物語」だった。


 どこかの映画感想でクライマックスで「息子」が「父親」を撃つべきだと言う意見を読んだ。それこそが現実だと。
 そうかもしれない。だが、それでは「物語」たり得ないように俺は思う。ディカプリオ演じる男は「アフリカ大陸」を「神の見捨てた地」と言った。だが、アフリカは変われる可能性を残せなくてなんの「物語」か。命の軽い世界の現実は十二分に描いた。もういいだろう、と思った。最後に「希望」がなければ、我々はこの世界に「絶望」しか見いだせないではないか。現実だけを描けば、それでいいとは俺は思わない。せめて「物語」のなかでは「神はいる」と叫んでもいいじゃないか。
 我々と世界の関係を「ダイヤモンド」に象徴して描いて、娯楽映画のなかにありありとした真実を見せつける力作だと思った。(★★★★)