虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「皇帝ペンギン」

toshi202005-07-27



公式ページ


 実話を元にしたドキュメントやノンフィクションは、虚構ではない…と思っている人は多い。だが、人は物語とは無縁ではいられない。カメラという目は、あくまでも一面的なものを映し出しているに過ぎない。被写体として映るものの裏にある、その背景を思うとき、人は自然と物語を紡ぎ出す。

 人間の目も、カメラの目も、全てを映し出しているわけではない。そこに意味を付けていく、という行為によって生み出された以上、ノン・フィクションもまた「虚構」なのである。


 というわけで、「皇帝ペンギン」を見た。


 この86分の映画のために撮影されたフィルム。8800時間。執念であろう。皇帝ペンギンたちには当たり前の事とも言える。だが、生きるという営みの偉大さと過酷さを感じずにはおられない。その生き様をフィルムは刻印する。
 南極に冬がやってくる3月。隊列を組んで行進を始めるペンギンたちが目指すのは、外敵が近づきにくい氷山に囲まれた土地だ。ここでペンギンたちは、お互いのパートナーを見つけるための求愛行動を始める。産卵を終えたメスたちは卵を自分のパートナーに託し、100キロあまり離れた海へ向かう。自分とこれから産まれるヒナのための餌を求めて。
 その愛らしい容姿からは想像もつかない生き様。野生に生きるということは、生半可なことではない。その必死に逆境と戦い続ける彼らの姿を見事に切り取った映像に、感嘆を禁じ得ない。映像だけならば。


 だが、この映画はそのフィルムに余計な加工を施す。ナレーションによって、擬人化した物語として提示するのである。


 見ていて、これは「彼ら」に対する冒涜じゃないかと、俺は思った。確かに彼らを見て、物語を感じるということは、見ている側の勝手ではある。だが、彼らの生き様を提示する側が意図的に物語を生み出すために彼らの生き様をねじ曲げ、勝手に台詞をつけていく。その行為に、俺はもの凄く不遜なものを感じた。


 彼らの生き様が、人間の手によって加工されたような、非常に気持ちの悪い感触を感じる。カメラの目。そこから生み出された映像。それらを編集し、一本の映画にするだけでも、作り手の意図の加わった「虚構」なのである。そこにさらに意味をねじ曲げる行為を加えることは、自分たちの血のにじむような努力で手にした素晴らしい映像を貶めているということに、リュック・ジャケ監督は気付くべきだ。(★★★)