虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「レッドクリフ」前編

toshi202008-11-01

原題:赤壁
監督:ジョン・ウー
脚本:ジョン・ウー、カン・チャン、コー・ジェン、ジン・ハーユ



 昔、歴史ゲームの老舗、コーエー(光栄)が「三國志武将ファイル」というのを出版していて良く買っていた。


 それは言ってみれば、ゲームに登場するキャラクター名鑑なのだけれど、そこにはそれぞれの半生が分かりやすく書かれていて、俺はそれを眺めるように読むのが好きだった。「三國志」のゲーム自体は「3」あたりでやめてしまったのだけれど、その武将ファイルシリーズはしばらく続けて買っていた。


 三国志三國志)という時代のすごいところは、あまりにも多くの傑物が現れては消えていったことだ。そのあまりにも豊穣で個性豊かで、そして己の矜持の中を生きた男たち、または女たちが、これほどまでにいるのか。その武将ファイルシリーズを眺めていて、それぞれの人生をかいつまんで書いてあることを読むだけで、なんか・・・すげえな、と思っていた。そこにいるのは武将だけではない、軍師、文官、医者。様々な人間が己の矜持の中でもがいている。
 なんで、彼らはこれほどまでに必死に生きられたのか。


 英雄とは。英傑とは。人物とはなにか。


 もともと歴史が好きなこともあり、横山光輝が書いた三国志を皮切りに、NHKの人形劇や「蒼天航路」など三国志世界の魅力にどっぷりはまったことがある。
 英雄であることとはどういうことなのか。彼らは何故英雄たりえるのか。英雄を「キャラクター」として捉え、そこに連なっていく軍師や、文官、武将などをつなげていくことで、なんとなく理解していたつもりではあった。だが、それはあくまでも俺の脳内の系統図の中での「時代」の把握に過ぎなかったのだ。

 ・・・とこの映画を見て思い知らされた。


 空、山、河、大地。そして人。80万の大軍を束ね、そしてそれが軍隊として動き、運河を飲み込む。それがどういうことだったのか。



 長大な、善と悪だけでは決して割り切れない時代を、後世の人間が、想像力を恃みに羽ばたかせて作り上げた「三国志」の世界。その三国鼎立へのクライマックス、「赤壁の激闘」をあえて切り取って一本の映画にしようとしたジョン・ウー監督が、何をすれば三国志という題材と切り結べる映画として成立するか、と考えたか。それは「わかりやすく、平易に、そして人と英雄の間をにあるもの」を描く、ということだと思う。


 この映画、構造としては非常にシンプルで、物語に必要な「人物」を最低限に絞り込んだ上で、弱者を飲み込もうとする強者の脅威の中で葛藤し、それに立ち向かう「英雄」たちの人間ドラマにする、ということだ。その上で、「5万VS80万」の水上決戦へと向かう経緯を「画」で見せきろうとする。その凄みは、いままでの「合戦もの」とは明らかに違うレベルの、「画」が出来上がっていた。そしてそれは、はからずも「英雄」と「人間」の間にあるもの、つまり「世界/時代の空気」をも浮き彫りにする。


 英雄とは、数千、数万単位の人間の運命を、自らの手によって決せねばならぬ生き物である。文章にだけすると「ふーん」なのだが、それを映像という形で見せつけられると、それはもう、ものすごいプレッシャーとなって、我々の脳髄を襲う。うかつなことをすれば、己のせいで「数千、数万、数十万」単位の死傷者がでること。それがどういうことなのか。
 広大な大地の中で繰り広げられる命のやりとりを見て、思う。「英雄」であることは、俺のような凡人が思いを馳せた程度の以上に、凄まじい現実の中に放り込まれ、決断を迫られる。ましてや、天下分け目の天王山、時代の潮目が変わるか変わらぬか、という瀬戸際でのせめぎ合いなのだ。その中で「人の生き死に」を預かるという、その目で見る世界の、なんという尋常じゃない世界。そんな当たり前のことを、この映画で教えられた。


 ・・・そりゃあ尋常な神経では生きられないであろうよ。そういう世界で歴史に名を残す人物の見る世界は。文官も、軍師も、武将も。酷薄な世界で、理不尽な状況に葛藤しながら、必死に生きて必死に死ぬしかない。
 そういう人物たちがうごめく中で、その人物たちが心酔し、あるいは激しく憎みながら相対し、数万という兵士たちが、「この人ならば」と命を投げ出すに足る人物であること。そういう人物であろうとする人でなければ、結局英雄には成り得ない。その凄みの一端をこの映画は見せつけてくれる。英雄の「生き様、死に様」は、そのまま数万単位の人間の「生き様、死に様」であること。
 そんな「当たり前」を、この映画は我々に教えてくれる。もう、続編が待ちきれない。もっと、俺の陳腐な想像を軽く凌駕する「当たり前」を見せてほしい!(★★★★)