虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「エンド・オブ・ウォッチ」

toshi202013-09-12

原題:End of Watch
監督・脚本:デヴィッド・エアー


 映画ブログをやってますと、まあ、なんつーかこう、アレです。くだらないことを考えます。反響がどうの反応がどうの。そんなことで一喜一憂したりする。読んでもらう、という特性があらばこそ、という部分があるため、ついそういうことを考えがちですが。
 しかし、考えてみれば。映画ブログというものを僕がやっている原初はどこにあるかと言えば、まあ、はっきり言えば「記録」です。「僕が考えてきたこと」という連なりを「記録」しているということであります。


 TwitterSNSというものの面白さはどこにありや、というのをぼんやりと考えてみると、人々の「ログ」と「ログ」の合間にある境界線を取り去り、より人と人が「ログ」によってつながる、という面白さであります。会話でなく本人の「記録」と他人の「記録」がつながるという面白さがTwitterなどの本質だと思うわけです。


 人間の中にある「記録する」という本能。これはおそらく人間だけが持ちうる本能なんではないかと思う。それは文字だけに限らず、音声、映像など、多岐に渡るわけですが。


 さて。


 この映画もまた「記録する」という行為によって形成されています。誰かに見せるためではなく、思い出づくりのためではなく、その「仕事」という名の日常を「記録」すること。そのための映像の連なり、という体で物語は幕を開けます。
 しかし舞台はロサンゼルスのサウスセントラルという、麻薬カルテルによる犯罪の温床となっている地域で日夜犯罪と対峙する、市警の警察官テイラー(ジェイク・ジレンホール)とサヴァラ(マイケル・ペーニャ)が自分たちの仕事を映像によって「記録」する、という体で映画は進行する。



 この映画はそこを入り口にして映像の色味を「デジカメ」のざらっとした感じに合わせて撮影し、記録映像「風」に彼らの姿を追う。彼らがデジカメやマイクロカメラで映す「記録」と、「映画」として撮影したものが違和感なく混在し、独特の臨場感とリアリズムを獲得している。
 何も無い時はパトカーで流しながら、たわいない日常会話を繰り広げる彼らが、事件が起きて赴く現場では、常になにかしらの犯罪組織の「影」がちらつく。彼らは「その結果」に否応なく対峙を迫られる。


 そんな彼らもプライベートでは、陽気な素顔を見せる。
 デジカメの本質は、本来プライベートの記録であるわけだから、当然、そういう「記録」もカメラによって撮られているわけである。
 恋人とデートしたり、結婚、出産に立ち会ったり、そういう「警察官」ではない彼らの「若者」としての顔を見せるけれど、しかし、プライベートでもまた、彼らは「警察官」としての「業」を背負ってもいる。
 彼らがプライベートで見せる「絆」はまた独特で、「友達」ではなく「兄弟」と表現するように、「親友」というよりは「戦友」という言葉が似合う。結婚を決めた「相棒」に対して、「妻の面倒は俺が見る」と言う場面は、彼らの仕事が「死」と決して無縁では無いことを物語る。
 そして、「記録」しているのは警察官だけではない。なんと「犯罪者」側も「デジカメ」を携えて、「犯行に向かう姿」を「記録」していたりするのが可笑しい。「記録する」本能は、警官、犯罪者の枠を越えて存在しているのである。


 職務と私生活が「記録」というフィルターによってつながり、やがて、そこから彼らの「記録」の連なり、その向こう側の人生がほの見えてくる。そして、彼らの人生に襲いかかる、巨大な影も。
 やんちゃでケンカ早く、皮肉屋でいたずら好きな、されど汚職もしない職務に忠実な警官二人の「人生」に、突如襲いかかる「最大の危機」をこの映画は容赦なく映し出す。彼らはその危機を脱することは出来るのか。
 その行方こそがこの映画のクライマックスである。その臨場感は「記録」映像として映画を構成してきたからこその迫真の銃撃シーンとなっており、そのリアリズムは圧巻である。そして、追い込まれた時にも決して消えない「絆」と、それゆえの「顛末」に愕然とする。


 「デジタルカメラ」が圧倒的に普及し、「一億総記録時代」となったイマだからこそ成立する、新たな映画のリアルである。必見である。(★★★★☆)


 

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