虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

ファンタジーとしての「電車男」

toshi202005-06-12



 映画「電車男」を見てきた。


 この日記でも随分揶揄したけれど、実際見てみないと映画ってのは分からない。結構感心した。悪くない。悪くないよ。


 とは言え、序盤はかなり低調。正直、見ていて辛い。リアルだから辛い、というよりも、オタクの捉え方が戯画化されているから辛い。リアルであろうという意識が薄い分、どうしても作り手が突き放した、他人事の「オタク」像になるのはいかんともしがたい。それらしいエレメントの方向性や山田孝之の役作りも、「知らない人が見て一目でわかるオタク」にしようという意識が見える分、いたたまれなくなるような辛さが伴う。
 2ちゃんねるでのやり取りも、実は2ちゃんねるそのものとは異質だ。どちらかと言えば6人くらいのメインのチャット仲間と「電車男」との「対話」を、無数のサイレント・マジョリティー(もの言わぬ多数)が見ている、という風に換骨奪胎されている。だから、「会話」として「電車男」スレッドの文をそのまんま台詞にする痛々しさ。くはー!やめてくれー!どうなるんだこれー!…と、正直尻がむず痒くなるのをこらえながら見ていたのだが、中盤辺りから、「虚構」として描いてきた強みが生きてくる。


 虚構として、戯画的なオタク、または2ちゃんねらーを描く序盤は、「電車男」という物語を、ラブファンタジーとして置き換える儀式だったとも言える。


 実話から生まれたというこの物語が、「本当に実話であるか虚構なのか」という議論がある。だがこの際どうでもいい。この2ちゃんねるを媒介として生まれた「物語」としての「電車男」は、確実に世の支持を得たという事実があり、そして映画化、ドラマ化の流れがあるとう「事実」は動かない。この映画版はその「実話か虚構か」の議論を超えたところ、つまり「物語」としての「電車男」に、その信を置いた。
 この映画のあり方。それは戯画化された「現実」を描くこと。つまり「実話」といいつつ、「虚構」としての「恋愛」を語るというスタンスに打って出た。


 金子ありさの脚色の白眉は、エルメスの心の流れを、自らの手元に引き寄せたことにある。つまり、彼女がもし「電車男」に惹かれるとしたなら、どこにその魅力があるのか、ということをはっきり打ち出したこと。電車がどんなにオタクくささを消すのに必死になっても、それはどうしても付いて回る。外見がどんなに洗練されても、電車はひたすら格好悪い。そんな「電車」をエルメスがはっきりと愛おしく思う、その転機は、2ちゃんねらーたちの手から離れ、電車男が自分に何が出来るかを考え、そして行動を始めることにある。その時、初めて彼女は「電車」を「男」として意識するのだ。


 監督の村上正典は、そのニュアンスを含めて、あくまでも軽快に描いてみせる。電車男の応援団のひきこもり青年や失恋した女性看護師、オタク3人組を分割画面で登場させたり、文字にも“演技”させるにぎやかな仕掛けも、なかなか悪くない。「電車」の頑張りに触発されて、それぞれの生活に「変化」を持たせようとする。群像劇として映画は締めくくられるのも、粋だ。


 電車男という現象を、普遍的なラブファンタジーとして総括することに成功した。佳作。(★★★)