虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

物語至上主義者としての「脱オタク流」


 さて。
 オタクという概念が去年から今年にかけて、大きくクローズアップされた。それはあくまでもかなり狭い意味でのオタクを拡大解釈して、メディアはオタクという記号を映しだしたとも言えるか。


 しかし、オタクとはもっと広く、深い海ではなかったか。


 私は自分をオタクだとは思っている。物語、という可能性と向き合う、という意味では。と、同時にオタクというカテゴリで判断されることも、オタクとして世間を見ることも嫌う質でもある。オタクというアイデンティティとして物事を語ると、ネガティブな見方になりがちだ。ていうか、そういう枷が物事の見方を狭くすることを知っているからだ。


 一昨年だったか、大谷昭宏氏がフィギュア萌え族、という言葉を使って、オタクを蔑視するような発言があり、ネットで大バッシングが起こった際、私は「大谷氏のものの考え方」を考察した文章を書いたところ、「大谷氏寄りの意見」として、紹介されたことがあった。ネットで論争することの不毛さを知っている私はスルーしたが、内心、不快だった。私自身はオタクとして文章を書いたつもりだったからだ。
 敵か味方か。オタクかそうでないか。そういうものの見方しかできないオタク、ていうか、一部のオタ系ネット言説に、軽い失望を覚えたのはそのころだ。


 その後「電波男」というオタクというアイデンティティを最大限肯定することで、非モテコンプレックスを持つ人々に勇気を持たせよう、という書が出て、非モテな私も興味深く読んだが、ただ、私は「電波男」が肯定するオタクという人種が、どうにも狭義のオタクのように思えてならなかった。オタクライターとしての側面を持っていた本田氏にとってそれは当然の帰結だった気はするのだが、この「救いの書」は俺を戸惑わせた。
 俺は「萌え」で救われたいとは思ってなかったのだ。ていうか、エロゲやんなきゃ、フィギュア買わなきゃ、メイド喫茶に行かなきゃオタクじゃないのか。


 オタクだからモテないのか。モテないからオタクなのか。ていうか、オタクってそういうもんなのか?


 前提が間違ってるとしか思えない。モテようがモテるまいが、それは結果に過ぎないのではないか?
 オタクの人口が増えていく過程で、そのあり方はどんどん細分化されて、オタクは一見自由になったように見える。しかし、細分化されていくことで出来上がったのは、物事の考え方に枷をかける習性を持つオタクの増加だ。


 「オタクであるがゆえに我あり」


 そう思うから、結果を見たときに「ゆえに俺=オタクは非モテ」「非モテゆえにオタク」という考えの螺旋に堕ちる。「オタク」というマイノリティ気分*1をまとって、救われた気になるのは簡単だ。だが非モテとオタクの相関性は、実はないに等しい。それはあくまで個人的資質ゆえの結果だからだ。
 そういう結果は個人で引き受けるべきだ。出来るならば。*2
 

 俺は映画を好んで見ているし、うちのサイトを見てくださってる人も映画好きな俺の書く感想なりエントリなりを読む、いう流れで来られる方が大半だとは思う。だが、俺は自分をサブカルだなんて思ったことはない。俺は映画も、アニメも、漫画も、等価に見ているに過ぎない。作家が「物語」を通じて刻みつけようとする「魂」を感じたい、ただの一オタクに過ぎない、と俺は思う。だからこそ、俺は送り手が何を描きたいのかを知るために「思考」している。それは、「枷」を取り払うことで初めて可能になる。その瞬間、俺は俺自身から自由になれる気がする。


 自分という思考の枷の中で引きこもって思考するのは、実は一番つまらない行為だと思う。自らのオタクという枠を脱することで見える境地があるはずだ。そして、枠から外れてもオタクでなくなるなんてことはない。


 「オタク」というありもしないマイノリティー幻想、共同幻想の枠から解き放たれたとき、初めてオタクは自由を得る気がする。


 オタクであろうとし続けなくてもいい。だって、オタクはいつまでもオタクなのだから。それを知っていればオタクはどこへでも行ける。

*1:本当にマイノリティか?という疑問が俺の中にはあるが、それはまた別の話なので保留

*2:電波男」はあくまでも本田透氏個人の「物語」の上で成り立っている。