虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「キング・コング」は想定外を見せたか

toshi202005-12-24



 みんな「キングコング」を褒めている。しかも、絶賛が圧倒的に多い。俺はそれを「キングコング」絶賛包囲網と呼ぶ。被害妄想であるのは承知している。非モテ男がクリスマスに感じる、恋愛資本主義、という言葉に近い。


 狂気に似ているのだ。俺が映画に求めるものは。映画とは「知る」、ことではない。「感じる」ことだ。


 「要素」や、「記号」で、映画を「傑作」と「感じる」のではない。その先にほの見える、描こうとしたものを描いた上で、それ以上の「ある領域」にこそ「感じる」。映画を見ている「俺」を「そこ」に連れていってくれる映画こそが傑作。俺にとって、傑作映画とは、最終的には「そういう」ものだ。


 俺はそういうものに共鳴するのだ。おそらく。「キングコング」は狂っていたか。難しい。だが、もし狂っていたなら、俺は何も言わずに★5つ入れていたろう。
 ピーター・ジャクソンはオリジナルの「キングコング」を絶対的にリアルにしようと試みた。それゆえの「改変」があった。それは成功していた。だが、それは本当にするべきことだったのか。難しい。その「リアル」とは「現実のような」という意味だが、そこに足りなかったのは全編を貫くべき「真実」。それを見せるか否か。
 PJほどには「キングコング」を俺は知らない。しかし、監督が「キングコング」を「ピーター・ジャクソンの物語」として語り尽くしたならば、題材について知らなくとも共鳴することは?


 可能なのだ。


 おそらくという推測でいうのだが、「キング・コング」はPJの「想定内」に収まった映画のように思ったのだ。
 「LOTR」はピーター・ジャクソンの「別領域」を引き出した作品だと思う。言ってみれば、本人も作る前には思っていなかったような領域のイマジネーションを引き出していたはずだ。それを大いに感じた。
 「キング・コング」はどうだろう。俺には、どうも、ある「手加減」とはいわないがある種の「予定調和」であった気がした。それは「スクリーン」に「見えているもの」のことではない。「見えないもの」。描こうとしているものの先、物語の至高とも言うべき「向こう側」にいけなかった感じがした。
 たとえば、「人間」と「怪物」、両方の側を描こうとしたこと。「人間」たちの物語として始まりながら、「怪物」の目線で描いた後半に、「かれ」を「女性に理解してもらおう」という作り手の「見栄」や「欲」が、映画の中に見えてしまった。真に怪物を描くなら、彼女は「怪物」を理解してはいけなかったのではないか。いや。



 「怪物」は理解されてはならなかった。彼女にさえ。



 愛すべき「怪物」。それは「リアル」ではなく「ありえないファンタジー」の領域。だが、彼が描こうとした世界はあまりにも「リアル」すぎた。人を殺す「怪物」を愛する女は「狂っている」はずなのだ。それは「常人」には理解できない領域であるべきなのに、まるで「理解されるべき」もののように語る。
 それは、「真実」ではない。「嘘」だ。
 この映画の物語の肝を「ロマンス」にした時点で、この「嘘」は不可避であった。その「嘘」を「真実」のように語るのは、甘えと思う。もしも「語り直す」ことにPJが「本気」ならば、おそらく、そのような「甘え」を許せないはずだ。「リアル」と「トゥルー」が拮抗してこそ、「キングコング」は真の傑作になったと思うのだが。


 みんなが言う「凄い」と俺が求める「凄い」は意味が違うのかも知れないなー、と思い知らされる。そんな昨今である。


追記:文章メタメタだったので、ちょこちょこ修正いれてます。