虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「ちはやふる/上の句」またはネットにおける日本映画にまつわる言説について

toshi202016-04-17




ちはやふる/上の句」
監督・脚本:小泉徳宏
原作:末次由紀



 しょっぱなから景気の悪い話で申し訳ないが、最近更新量がめっきり減った。


 まあ、単純な話、それすなわち映画鑑賞量が激減しているからである。
 正直な事を言えば休日は寝ている事がめっきり多くなった。当然ながら映画鑑賞にも支障を来すようにはなる。
 その割にはてなブックマークTwitterは頻繁に更新している感はあるのだが、基本的にソシャゲに嵌まっている人の行動原理と同じで、忙しい隙間の時間にそこそこ捗らせることが出来るためである。だもんで、基本的には「仕事してるか、寝るか、大河ドラマと朝ドラ見てるか」みたいな生活へと移行しつつあり、「これはまずい」と思いながらも半分ブロガーとしては死んだ状態で生きている。
 なのでまあ、基本的にネットは関わりも積極的に発信していくというよりも、見ながら時折茶々入れるくらいのポジショニングに終始している。そんなていたらくの私である。


 そんなはてなブックマークで一時期話題になったのが、「日本映画のレベルが低い」というものだ。

改めて考える。「日本映画はつまらない」のか。


【スクリーン雑記帖】今の日本映画にもの申す…「レベルが本当に低い!」 英映画配給会社代表が苦言(1/5ページ) - 産経ニュース


 基本的にこの記事はうなづかざるを得ないところではあるだろう。このプロデューサー氏のいうところえぐられてしまうのは、「日本映画」そのものに希望を持っている、それゆえに「ここがいかんのではないか!」と直言してくださっているところだろう。日本人ってのはなんだかんだ空気を読む文化で育ってきている。それが日本という国の良さでもあるし、それによって物事スムーズにいく場合もある。
 だが、その弊害がもろに出てきてしまったのが、去年の映画「進撃の巨人」のメディアに出てきた批評の迷走ぶりにも現れていたように思うし、批判される事になれてない人たちが、予想以上に打たれ弱さを露呈してしまったりと、色々見えてしまう事もあったりした。
 「俺達は群れない、馴れ合わない」と口で言うのは簡単だ。だが、同じ枠の業界にいると、そこに空気を壊す人間を排他する流れはどうしても生まれやすい。そこで人と違う意見や行動を取ると「なんでそんなことするの?(または言うの?)」というバイアスが懸かるという事もあるのだと、まあ色々思ったりしたのである。映画メディアの成熟と、ビジネスとしてのあり方の変革こそが日本映画を真に再生させるという提言は、悔しいけれど首肯せざるを得ないところもあったのである。


 しかしである。この記事の後に続いたブロガーたちの人気記事がまるでいただけなかった。この記事を肴にした記事のことごとくが、「日本映画は衰退している。」もしくは「日本映画はつまらない」ことを前提に話をすすめてきた事である。


 ぼくはそれらの記事を見ながらこう思ったのである。「いや、日本映画、つまらなくねえよ。」と。


 「え?おかしくない?」「さっきと言ってることと違うじゃない?」と思う人はいるだろう。
 うん。面白くない日本映画というのはもちろん星の数ほどある。柳下毅一郎氏のメルマガ「皆殺し映画通信」などは毎月のように「つまらない日本映画」を取り上げているし、「テレビ局主導映画」が毎月のように作られているじゃない?と。日本映画ってつまりそういう「ゴミのような映画」を作り続けているじゃない?という主張に一定の理があるようには見える。


 だが、一言言わせて戴く。「日本映画はゴミだらけだ。」「日本映画に価値はない」とまでいう意見を言う人々の中に、どんだけ日本映画に対して「出会おうとしてきた」人間がいるのかい?と。まずはその事をあなたの胸に問いたいのである。


 僕はね。今でこそこのていたらくだけど、でもまがりなりにも15年以上映画感想を書いてきた。その人間が言うけど、「日本映画はつまらなくなってないよ。」と思う。もちろんこれは体感的な話だけれど、日本映画は日本映画なりに試行錯誤しつつも、切磋琢磨して成長してきたんだと僕は思うのだ。
 もちろん外国の映画と比べて「ああー!悔しいけれど韓国映画おんもしれー!」とか「インド映画ってなんてパワフルなんだ−!」とか「ハリウッド、金かかってるのもあるけど、予算無くても面白い映画いっぱい出てる−!」なんて思って、「それに比べると日本映画はよお−!悔しい!」と思うこともあるよ?だけどさ。それでも面白い「日本映画」は毎年一定数出てくるわけ。


 「外国映画に比べて、日本映画が必ず面白い映画が見られるわけではない」のには理由がある。それはね。「日本映画」は「日本国内で作られている映画」だからである。外国映画は、ハリウッドはともかく基本的に「これは面白い」という評判の映画が「選ばれて」日本で公開されるのに対し、日本映画はデキが良かろうが悪かろうが、とりあえず作ったら上映して制作費を回収せねばならない。故に当然日本映画は日本で1番劇場を占領するし、その中にハズレが多くなるのは必然である。
 そのためには面白い映画もつまらない映画もひっくるめて、日本国内で宣伝してもうけを出さねばならん。それはビジネスとしては当然の帰結だ。


 そういうアドバンテージがある中で僕は、去年の映画ベスト記事で、選んだ10作品の中に日本映画を4本入れた。もちろんその中には「テレビ局主導の作品」もある。
 そして、映画鑑賞量が減り、休日は寝てばっかりいる疲れたおじさんの心揺さぶる日本映画にすでに2本出会っている。一本が先日感想を書いた「リップヴァンウィンクルの花嫁」。そして、「ちはやふる/上の句」だ。

ちはやふる/上の句」から教えてもらった「あたりまえ」のこと。


 自分の中の映画の基準として絶対的に面白い映画に出会った時の「感覚」がひとつある。それは「映画を見始める前と後の景色がまるで違って見える」というものだ。つまり、それほどまでに「映画」に没入した結果、見た後の景色がまるっと「違う」景色のように見えることがままある。そしてそれは、今年出会ったその2本にどちらも該当する。


 一言で言えば「ちはやふる/上の句」の原作は、百人一首をスポーツとして取り合う「競技カルタ」を題材とした、言わずと知れた大ヒット少女漫画であるが、僕は恥ずかしながら未読の状態でこの映画を見た。その上で感じたのは、その「ハンデ」がまるで問題ないように脚本が練られていたことだ。
 基本的には小学校時代にかるたを通じて仲間になり、高校1年になったヒロイン・綾瀬千早(広瀬すず)とかるた仲間だった真島太一(野村周平)、そして祖父の介護のために東京を離れて福井に住む綿谷新(真剣祐)の3人が、高校1年としての「今」を生きる物語になっている。小学校編はあくまでも「過去」であり、彼らの中にある「大切な記憶」として登場する。そして千早と太一はかるた部を創設し、全国大会で競技かるたを通じて新と再会するために動き出す。
 かるた部創設メンバーとなったのは、千早と太一、おちゃらけてるけど小学校時代は新に次ぐ2位の実力者だった肉まんくんこと西田優征、学年2位の秀才で机にいつもかじりついてるから「机くん」と呼ばれる駒野勉、古典おたくの呉服屋の娘・大江奏の5名。彼らが、競技カルタ全国大会にむけてひたむきに動き出す姿を恋愛模様も交えて描き出す。


 小学校の頃に新からもらったカルタ熱を熱く持ち続ける千早は、常にカルタに全力投球だ。その熱が、周りの部員に少しずつ伝わっていくまでの過程を丁寧に織り込み、その熱が終盤で大きなうねりのあるドラマを生み出す。
 個人的に心に刺さるのはやはり「机くん」のエピソードだ。彼はカルタ経験もなければ、古典の素養も無い。ただ、その分析力と記憶力の良さを買われて部員になった新参者だ。彼は勉強しか能が無いと思い込み、ずっと周りと壁を作ってきた。部員として誘われた時もその壁を崩す様子は見られない。それは、逆に言えば、自らの「新たな可能性」を信じていないがゆえの壁でもあった。
 だが、千早の「机君とじゃなかったらやだよ。私は机君とカルタがしたい。」の一言で次第にその心の壁を溶かしていく。

 次第にひたむきにカルタに向き合うようになる机君だったが、問題は周りとの部員との経験値の差である。西田はカルタ歴は千早たちよりも実は長い。千早と太一ももちろん経験者としてカルタ部を立ち上げている。彼が追いつくには時間が足りない。そして大会で。彼は団体戦を勝ち抜くための捨て駒として扱われるという屈辱を経験することになる。
 思わずその場から立ち去ろうとする机くんは他の部員に向かって泣きながら叫ぶ。「今まで通り1人なら、こんな気持ちにはならなかったのに!」と。



 出会わなければ良かったのに。
 そう思うことは人生いくらでもある。それは映画も人も同じである。映画を見に行かなければつまらない映画を見る事は無い。そうだと思う。でも本当に映画が好きなら、そういう思いも込みで出会っていかねばならんと思う。そしてたまーに素晴らしい映画と出会った事に心の底からの歓喜が来る。
 僕はね、日本映画に希望を捨てていない。なぜなら、作られ続けているから。作られ続ける限り、それが傑作になる可能性は多分にある。そして年に何本か「これは面白い」という映画に出会えている。
 まずは本気で日本映画を見て欲しいと思う。その上でアナタの中の「宝」と「出会って」欲しいと思う。


 出会わなければ見られなかった風景がある。僕はね、「ちはやふる/上の句」でそんな当たり前の事を思い出させてもらった。映画も人も出会ってみるまでわからない。机君や太一たちが、千早と出会ったことで見る風景。それにただ涙を流していた。「下の句」がどうなるかはわからない。だが、とりあえず「ちはやふる/上の句」は純然たる傑作だと思ったのである。出会えたことに感謝である。


 日本映画は今も、生きている。(★★★★★)