虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「アクト・オブ・キリング」

toshi202014-04-16

原題:The Act of Killing
監督:ジョシュア・オッペンハイマー


 この映画は、1965年、スカルノ大統領政権下のインドネシアで起こった、軍事クーデターに端を発する、共産党員と疑われる市民に対して行われた100万人規模の大虐殺を、「加害者」たちの視点から「再演」してもらう過程を追ったドキュメンタリー映画である。


 この映画に登場するアンワル・コンゴ氏は映画館ギャングとして幅を利かせたヤクザもんで、虐殺する側に回った「殺人者」である。
 彼の中で1965年の虐殺は完全に正当化されている。だから彼の態度には被害者への哀れみや罪悪感なんてない。「だって、あいつら「共産党員」じゃんか。死んでもいい連中でしょ、あれ。俺、あれだけ人を殺しながら、こうして許されてるもの」というのがその理屈である。
 監督からの「カメラを前に、自由に虐殺の再演をしてください。」という依頼に対しても、彼は快諾する。彼はもともと映画が大好きである。「俺、シドニー・ポワチエに似てるだろ。」というくらいであるし、実際の虐殺や拷問に、映画の暴力シーンを参考にしちゃうくらいである。だから、自分が被写体になれるだなんて!と言うことで大ハリキリである。
 カメラを前にして、「あの時なんかよーう、こんな風にこの針金をクビに巻いてよー。そうすっと針金だから、締まってもクビに食い込んで抜けないんだよー!」などと嬉々として殺人の様子を詳細に語り出す。

 そんな自分の姿を自宅でエアチェックしながら、「あー、この服装はちょっとないな。髪が白だとあかんから染めなきゃ!白のズボンもちょっとダセエ。」などと服装の反省をしたりしてる。殺人現場で、当時殺人をした後に行ったディスコでの光景を思い出して、踊り出すような軽薄さには、虐殺に対する罪の意識なんてかけらもないように僕らには見える。


 撮影当時、虐殺の「加害者」たちは権力に相当食い込んでいることが、この映画でも端的に描かれており、アンワル氏と知事が昵懇の間柄だったりする。だから、仲がいい奴らも大体殺人者とそれに指示を出していた関係者、ということになる。彼らの語る虐殺はほんの氷山の一角であるのだけれど、しかし、それでも十分におぞましく、醜い。しかも、彼らはそれを嬉々として語る。
 だが、やがて、この映画は思わぬ方向へと向かうことになる。



 そもそもこの映画の成り立ちの過程はちょっと特殊だ。そもそも監督は「虐殺」の「被害者」たちのドキュメンタリーを企画し、2000年代前半に撮影を開始していた。だが、製作を始めてしばらくして、「虐殺被害者」側への取材をいやがるインドネシア政府からの横やりで、そのドキュメンタリーの撮影が暗礁に乗り上げる。
 そこで、「加害者」側から虐殺を見つめるかたちであるならば、インドネシアの虐殺を見つめる映画は成立するのではないか、という形でスタートする。


 そんな経緯で虐殺の経緯を「加害者」たちに「再演」してもらうという、異例のドキュメンタリー製作が幕を開けるわけである。よって、この映画の道行きは、本来製作者側が理想どおりに意図した形で始まったわけではないのである。だが、この「望まざる映画」が映してしまうものとはなにか。
 それは人の中には善と悪という色分けを越えた沼のような業が広がっているという、人類不変の「事実」である。


 人が人であること。それを規定するものは、ない。僕もこの文章を読んでいるあなたも、実はどこまでも残酷になれるし、どこまでも非道になれる。


 人がストッパーを外して残酷になるには段階を踏む必要がある。「殺していい人間」と「そうでない人間」という箱で人間を分けること。そして、「こいつは人間ではない。だからナニヲシテモイイ。」というレッテルを貼ることだ。そこで初めて人は、残酷な暴力の衝動を解放することが出来る。
 本来、他者への思いやりや慈しみを持っているはずの人間が、他者への敬意も尊厳も認めずにただただ、蹂躙する。そんな暴力性は社会のなかの人間として「してはいけない」とされながら、それは誰しもが持ちうるものである。そして、そのストッパーが外れてしまった時、人は「殺人」も「拷問」も、あらゆる暴力行為をためらわなくなる。



 では。そうして殺人者となった人間達は殺したことを忘れるのだろうか。


 忘れはしない。ただ、見えないように沈めておくだけだ。記憶の沼の奥底に。


 この映画は、「殺人者」による「虐殺の再演」という、誰も映画というかたちでそれを撮ろうという発想をしなかったことを、のっぴきならない状況の中でやることになった結果、「殺人者」たちの「記憶の沼」がゆっくりとそして確実にかき回されることにより、そこに沈めていた者たちが「殺人者」たちの中に蘇ってくることである。
 「殺人者」たちが「殺人」を「物語化」する中で、そこに映る「おぞましい自分」との対峙を迫られ、再び「忘却」の彼方に葬り去ったはずの「死者」たちと向き合うことになった時、何が起こるのか。この映画はそれを克明に写し取っている。彼らにしか見えない、残酷な風景の向こう側に彼らは何を見て、何を感じたのか。


 最後にアンワル氏が見せる姿は、僕らと何も変わらない。そのことが、実はなによりも恐ろしい。


 この映画が突きつけてくる「記録」は、もしかしたら、観客自身すらも目をそらしてきたかもしれない、「何か」を確実に揺さぶってくるのである。必見。(★★★★★)