虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「聯合艦隊司令長官 山本五十六 太平洋戦争70年目の真実」

toshi202012-01-04

監督:成島出
監修:半藤一利
脚本:長谷川康夫飯田健三郎


風雲児たち (1) (SPコミックス)

風雲児たち (1) (SPコミックス)


 みなもと太郎先生が今執筆されている「風雲児たち」および「風雲児たち 幕末編」は、坂本龍馬を描きたくて、結果、江戸幕府成立から幕末までの、江戸時代の全体を追いかける超大作・大河歴史ギャグ漫画であるが、この漫画を読んでひどく感銘を受けたのは、歴史というのは地続きであるということである。
 歴史の教科書ではある時急にこういう「事件」が起こったということを、ただ羅列していくだけだが、厳密に言えば、すべての歴史の出来事には連綿とした歴史のつながりの中に、その理由がある。


 そして。NHKの2010年の大河ドラマ坂本龍馬を題材とした「龍馬伝」。その直前の2009年の年末に第1部が放送され、2011年の年末に第3部が放映された、明治政府樹立から日露戦争までを描いたドラマ「坂の上の雲」があった。


 戦国、安土桃山を経て、江戸、幕末、そして明治へ。すべての歴史は、時代によって区切られたとしても、連綿と続いてきた人の記憶、体験、感情。そういうもので出来ている。


 奇しくも。本作は幕末に坂本龍馬がいた「海軍操練所」から始まり、「坂の上の雲」で描かれる秋山真之が立案した作戦で勝利する日本海海戦から続く、「日本海軍の盛衰史」の最終章とも言うべき作品になった。言ってみれば「海軍の一軍人が始めてしまった大東亜戦争(太平洋戦争)」についての物語だ。


 山本五十六アメリカ駐在、及び留学の経験から、アメリカの国力について熟知しており、その観点からアメリカを敵に回すべきではない、という姿勢を鮮明にしていた。その男が「聯合艦隊司令長官」という、海軍40万人の士官の命を預かる責務に就き、そして反対していたハズの、日米開戦の兵站を切ることになる。


 山本五十六が初めて戦争に従軍したのは「坂の上の雲」のクライマックスとも言うべき日露戦争日本海海戦である。彼はその時の従軍で指を2本、失っている。そして彼にはそれ以降の従軍の経験がない。ただ、彼には日露戦争が、「講和」のタイミングによって日本が勝利した事実を体験的に知っている。
 映画では描かれないが、「坂の上の雲」で描かれた、日本海海戦の大勝がきっかけで「講和」に持ち込んだ記憶が、おそらく「真珠湾作戦」構想の大元だとボクは思う。


 つまり「真珠湾攻撃」による「日米開戦」という危険極まりない賭けに、山本五十六が踏み出すのは「即時講和」という前提があったからで、それは映画にも描かれている。それは「日露戦争」で大国ロシアをうっちゃった、海軍の歴史を見続けてきた男の発想である。そしてその前提を覆されたまま戦争を続けることは、日本を泥沼の悪夢へと引きずり込むことになる。


 映画は「穏和で平和を愛する軍人」が、戦争の兵站を切り、そして民衆やマスコミがつかの間の勝利に熱狂する中、1人葛藤の中にさらされる姿を描く。この映画に描かれているのは、戦争というものが、前提を覆されたらどういう末路をたどることになるか、ということである。理想的な軍人がトップにいたとしても、ボタンがいくつか掛け違っただけで、理想は現実の中に否応なしに飲み込まれていく。
 この映画は「山本五十六」が主人公なので、彼が肯定的に描かれているが、映画を見ていて思ったのは、これは「如何に平和を愛していても戦争で失敗すれば、無辜の民すら巻き込んでしまう」という、最大の「失敗例」なのではないか、ということだ。


 歴史は続いている。「日米開戦」に反対していたはずの山本がなぜ「即時講和ならば開戦する」という無謀な方向へ「譲歩」を行ってしまったのか。彼が「アメリカと戦争すべきではない」と断固として言えば、もしかしたら日米開戦は避けられたかもしれない。けれども彼は「外交」次第では勝てる「かもしれない」という希望的観測の中に身を置いてしまったのは何故か。
 それは、日露戦争の記憶ゆえではないか。とボクは思う。針の穴を通すようなギリギリの「成功例」を、決断の担保にしてしまったのだと思う。


 そういう見方をしながら映画を見ていると、山本五十六の「理想からの後退戦」の末に戦死するまでを描いた後に、「東京日報(おそらく朝日新聞)」の記者(玉木宏)による、「山本五十六さんは平和主義で先見のあるいい人だった」みたいなモノローグは、まことに蛇足であると断ずるしかない。
 やはり、「真珠湾攻撃」に失敗して以降の展望がないままの日米開戦はするべきではなかったはずである。そのことは山本五十六は十二分にわかっていたハズである。何故開戦を「選んで」その結果「失敗」したのか。この映画で学ぶべきは、そこではないか。いい人だったかなんて問題ではないのである。


 現在、我々が震災によって「原子力発電所」が如何に危険なものかを体験と知り、その「結果」我々の核への「認識の甘さ」を理解したように、人間は常に「失敗」する。歴史はひとつかみの「成功」ではなく、それの何倍もある「失敗」の積み重ねで出来ている。我々が学ぶべきは、日本人が「何に成功したか」ではなく「何に失敗してきたか」ではないか。そして、その理由を探り、未来へ生かすことだ。
 この映画を見て考えるべきは、「理知的で温厚で家族思いで、先見のある高潔な名将」が何故、結果として無辜の民の多くを死に追いやる「失敗」を犯したのか。その一点である。(★★★☆)