虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「紙屋悦子の青春」

toshi202006-08-25

監督:黒木和雄
公式サイト:http://www.pal-ep.com/kamietsu/


 黒木和雄監督の遺作である。だが、俺自身彼の監督作をおどろくほど見ていない。俺が最初に見た黒木作品が「スリ」であったから、意外と若い印象があった。様々な傑作を撮っている大ベテランと知るのは大分後のことだ。つまり、私は彼の作品とは縁がなく、生きてきた。


 で、そんな私でも公開中に見たかったけど結局見れなかった「父と暮せば」を先日ようやく文芸座でみることが出来て、そして本作を見たのであった。


 さて。


 「英霊」という言葉がある。
 我々の国に殉じた人々の「なにか」の総称である。8月15日を前後にして話題になる「靖国神社」はその「英霊」を奉っているわけですが。俺からすると、「英霊」というのは人を奉ったものではない、という認識なんです。彼らは国に殉じた時点で、人間ではない「何か」になる。その「何か」になるために彼らは、別の何かを捨てている。それはなにか。


 おれは「未練」だと思うのです。彼らはこの世の未練という名の「半身」をもぎとられながら、「半身」を国に捧げて「英霊」といわれるものになる。しかしそれは、果たして人間と言えるのか。
 監督の晩年の2作を立て続けに見たことで、ある確信が生まれた。彼が戦争によって描こうとするのは、英霊ではなく、彼らがなくした英霊の半身、「未練」のほうなのであると。


 「父と暮せば」では、原爆で死んだはずの幻の父親が彼女の前に現れて去っていく一週間を描いた。その幻は、ヒロインの父親の、娘への「未練」であり、ヒロイン自身の「未練」であった。彼女は恋をしていたが、死んでいったた友人知人、なにより父親の「未練」を抱え込んでいるがゆえに前に進めず、その重さにのたうち、つぶされそうになっている。それを救うのは娘を思う父の「未練」で出来上がった幻であった。


 この映画で描かれるのは、戦時下の、鹿児島の片田舎。ヒロイン、紙屋悦子(原田知世)は、父母を東京の空襲で亡くし、兄夫婦とともに暮らしている。ある日、兄のところに、彼女の縁談が持ち込まれてくる。彼女は兄の後輩である海軍の明石少尉(松岡俊介)に思いを寄せていたが、相手は明石ではなく、その友人の永与少尉(永瀬正敏)であった。しかも、彼を紹介してきたのが明石自身なのだという・・・。


 この映画では爆弾も死体も出てこない。生臭いシーンはない。戦時下の庶民の生活から生まれる描写を積み重ねるのみだ。物のない時代とはいえ、都市部ほどには窮乏がひどくなく、少しだが蓄えもあった。だが、そんなところにも、戦争の影は否応なく表れる。
 兄・安忠(小林薫)と彼女の元親友の兄嫁であるふさ(本上まなみ)、そして悦子(原田知世)のやりとり。明石の思い、悦子の思い、長与の思いが行き違うお見合いの場面。あまりに不器用で、滑稽で、劇場からも笑いが起きる。だが、その愛すべき時間はやがて戦争という現実に絡め取られていく。明石は軍人としての矜恃として、戦線へ向かうことになっていたのだ。




 彼らは普通の人間であったはずだ。明石も悦子を好いていた。悦子も明石を好いていた。しかし、彼らは思いを伝えられず、思いを別の形にかえて示そうとする。彼女はその思いを必死で引き受けようとする。
 この映画で観客の心を橋渡しするのは、彼女の親友で兄嫁のふさである。当時許されぬ彼女は戦争の嫌悪をつい口走ってしまう、という現代人と心持ちが通じる人間として描かれているし、彼女の親友でもあるので、彼女が明石をどれほど想ってきたかを知っている。ある場面でふさが悦子の背中を押す場面がある。明石をおいかけろ、というのだ。それは観客の思いでもある
 だが、当時の分別をきっちり持つ彼女はくるりと背を向ける。許されないと分かっている。心だけじゃどうしようもない現実があることを知っている。追いかけても、抱きしめられても、それは彼の迷惑にしかならないのだと。


 だが、それは明らかに無理があった。それを知っているふさのやさしさに、感情が吹き出す。
 そして悦子は居間で初めて嗚咽をもらすのである。


 結ばれるべき二人は引き裂かれ、彼への思いを共有する形で、悦子は長与を受け入れる。だが、彼女の中でそれは青春の終わりを示していた。彼の遺した「未練」という名の半身は靖国神社に奉られることもなく、今も波の音と共に長与と悦子の中で眠っている。そこにある切なさは、砂を噛むように苦い。(★★★★)