虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「バーン・アフター・リーディング」

toshi202009-05-08

原題:Burn After Reading
製作・脚本・監督・編集:ジョエル・コーエン/イーサン・コーエン




 アルコール中毒のCIA諜報員の解雇から始まり、出会い系サイト中毒の財務省連邦保安官ipod中毒の体育会系青年に、整形願望丸出しの中年女性が、中身のない「なにか」に振り回されてやがて、想定外の出来事が連なっていくコーエン兄弟印群像コメディ・・・である。のはずである。


 うむう。


 久々に兄弟だけで原作・脚本・監督を担当する純正コーエン兄弟印のコメディで、演出の切れ味は鋭くて面白かったし、コーエン兄弟ファンとして楽しんだんだけど、なぜか見終わった後ひどくさみしい気分で劇場を後にして。あれ?なんだろう?と思っていたのだが。


 なんかこう、見終わったあと思ったのは「バカの壁」ならぬ「インテリの壁」がそびえ立ったおバカコメディ、という風情。
 オスカーを獲得した「ノーカントリー」以後の作品としては「なるほどな」と言えるシニカルさ爆発の映画で、なおかつ登場人物ひとりひとりは魅力的に描けてるし、喜劇としての質も申し分ない映画なんだけど、見終わってみると「俺たちには無縁なやつらの不幸な話」として語っているように見えてしまったのはなぜだろう。言ってみれば喜劇として「仏作って、魂入れたけど、それをドブに流す」の類。
 喜劇映画の皮をかぶった、ドス黒い映画であり、私には「この映画、嫌い」という人の言い分も大変にわかってしまったのでした。だって、本作において、語り手の登場人物への愛があまりにも欠乏している気がしたのだ。いや、愛を翻す、というべきか。この辺は純正コーエン兄弟作品としての前作「バーバー」とは違う感慨で、「バーバー」では主人公のあまりの悲哀にボロボロ泣いたというのに、本作では、なんかこう、いちいち、登場人物への感情移入の糸をぷっつり切るような、語り口をするのだ。
 たとえば、AがBを殺してしまった!、という場面があったとして、思わず殺してしまい、さあどうしよう、とAがうろたえる場面の後、Aはどうするでしょう?という展開になった後に、それがまるで「事務処理」されたかのような「報告」で説明されてしまうのである。 

 以前のコーエン兄弟なら絶対そんな「処理」はしなかったはずなのに、結果として「殺すつもりはないのに殺してしまった」愚かさゆえの悲哀を描くはずの「結果」のシーンを「切って」しまうのだ。そのシーンがあれば、後の展開にも「CがAに不安を告白する」シーンなどは、一層の「ブラックさ」が漂ったはずなのに、あまりにあっさりと見れてしまうことに驚いた。
 こういう「結果」を「報告」で済ます処理がエンディングまで続く。俺が、ラストのとある二人のやりとりを見て、奇妙な寂しさを感じたのは、彼らの愚かさに寄り添わない語り口をすることで、愚かな「彼ら」を思いきり突き放した、かつてのコーエン兄弟にはなかった「愚かさ」への「侮蔑」とも取れる「非情」をむき出しにされてしまったからで、喜劇として「笑い」と「嘲笑」の境界線を、ついに踏み越えてしまった映画なのではないか、と見終わって思い、そしてこれは、(俺が嫌いな)「ノーカントリー」の後味と奇妙に似ていることに気づいて、ファンとして哀しい気持ちになってしまったのでした。(★★★)