虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「ボラット/栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習」

toshi202007-06-13

原題:Borat: Cultural Learnings of America for Make Benefit Glorious Nation of Kazakhstan
監督:ラリー・チャールズ
脚本:サシャ・バロン・コーエン、ピーター・ベイナム、アンソニー・ハインズ、ダン・メザー、トッド・フィリップス



 惜しくも数年前に休刊しているが、「噂の真相」という雑誌を、俺は学生時代貪るように読んでいた。ネットがそれほど発達していない時代である。それは月刊ゴシップ誌だったが、この雑誌のすごいところは、攻撃対象を選ばないことにあった。政治、芸能、マスコミ、経済、文化人にいたるまで、標的はほぼ全方位的、無差別であった。だからこそ、その雑誌にはあらゆる人間の愚かしさのるつぼがそこにはあった。私の下劣な品性はますます磨かれていくことになるわけだけど。そして当然ながら、「噂の真相」を好きな人間よりも、嫌いな人間の方がはるかに多い。訴訟は今も続いていたりする。



 ・・・で「噂の真相」はかつて某漫画家をして「言論テロ」と揶揄されたことがあるが、そのたとえでいくとこの映画は「笑いのテロ」である。


 お笑い、というものがどういう風に発生するか、ということを考えたとき、この映画の「笑い」というのはある種の悪意を含んでいる。この映画の評価の分かれ目は深い溝であり、ここを許せるか、許せないかで大きく評価は隔たれる。
 笑い、というものが発生する場合、いくつかの要素があると思うのだが、意識的にわざと笑うのとは違う、反射/反応的に笑う場合、いくつかの理由が考えられる。ひとつは自分よりもおろかな人間を見た場合だ。いや、人間とはそもそもおろかなものであるが、いつも愚かしい事をしているのは単なる馬鹿であり、人はそれを取り繕いながら生きている。だからこそ、愚かさを出してしまう瞬間、というものがある。人はそのおかしみに反応する。
 そしてそこにもうひとつ、要素が必要になる。それは当人にとって「快感」である必要である。たとえば「ウンコ、シッコ、チンコ」を見て笑う、ということが「快感」であるならば大爆笑であろうが、それを見るのもおぞましい、「不快」なものであるならば、それは「笑い」には結びつかない。下品な話ではなくても、たとえばその人のトラウマにかかわる笑いならば、心からは笑えなくなる。
 「愚かしさ」「おかしみ」に「快感」が結びついて人々は笑う。



この映画には、人間の「愚行」のカタログともいうべき、多くの愚かさとおかしみがあふれている。だが、この映画を見て、さあ笑えと言われて素直に笑えるだろうか。いや、俺は笑ったけれども。ただね、と思う。


 ボラットの笑いは、下ネタを多く含んでいるが、それを除けば、基本的に他人の善意に付け込んで、愚行を押し付けたり、引き出したりする、笑いのテロリズム。そのやり口は、かなりギリギリ、というか、異文化交流という旗印の下で、一般人なら確実にレッドゾーンな域に踏み出してまで、愚かしさやおかしみを引き出そうとする。かなりアグレッシブなものだ。
 この映画が万人に笑える映画であるはずがない、と思うのは、この映画が笑いという「劇薬」の方向が、我々も少なからず持っている、「集合的自意識」であるからで。この映画が米国人を笑っている、という分析をする人が多いが、その対象に「俺ら」日本人が入っていないわけではない、と俺は見る。たまたま米国だったに過ぎない。とおれは思う。
 ボラットがやっていることは、「劇薬」をいきなり投げつけて、その反応を笑いに変える、という作業であるが、常にこの映画に漂う不穏な空気は、その劇薬が我々に向かってきたことを想像し、そして向かってこなかった幸運の中に我々がいることを知るからだ。米国ナンバー1ヒットの秘密ははそこにある。と思う。


 ボラットの笑いはいい意味でも悪い意味でも無差別なのである。
 ただ、この映画が惜しいのは、フェイクドキュメンタリー、パメラ・アンダーソンに萌え狂ったカザフスタン人、というフィクションとして逃げてしまったことで、そうしなければ映画として成立しづらいのはわかるのだが、これではやり逃げと言われても仕方のないところもある。大体、「これはフィクションです」とやっちゃうと、メインの突撃ネタまで仕込っぽく見えてしまいやしないか?ボラットは愛すべきキャラクターになどなるべきではなかった。いっその事旅の途中で死んで見せれば良かったんだ。


 ・・・ナァァァット(なんてね)!アメリカン・ユーモアは、難しい。


 その点では、比較対象としてよく挙げられる「電波少年」の方がはるかに高度だと俺は思う。お笑いとしてのケツのぬぐい方まで非常にまっとうだった気がする。素人を巻き込んだ攻撃的な笑いでありながら、松村邦洋などの芸人やタレントが、プロデューサーにむちゃを言われて実行する、というスタンスのため、最大の被害者は「やってる本人」という構造が、素人を笑いに変える際のクッションとして働いていたが、この映画にはそんなもんないのである。やりたい放題→終了〜、てな具合に見えてしまうのが、俺的には笑いとしていびつな気がするのだ。



 だからこそ、この「お笑い」の実行方法に、「映画」というジャンルでなくてはならなかったのかもしれない。言ってみれば抜き身の刀で辻斬りして回ってるようなもんで。サシャ・バロン・コーエンの一世一代の通り魔的やり逃げネタである。
 だけど、サシャ・バロン・コーエンが今後もこういうネタを続けるのか、どうなのか。たぶんこれっきりじゃないのかな。パメラ・アンダーソンはこの映画が元で、ラッパーのだんなと破局しちゃったらしいし、なんかこういう洒落ですまない「被害」が現れると、さすがに笑えない。面白かったけど、これが「笑いの極北」と言われるには気骨を感じなかったのが、惜しいところだ。殺されかけるまで続けて見せたら尊敬するぜ。…ナアアット。(★★★)