虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「サンキュー・スモーキング」

toshi202006-10-20

原題:Thank You for Smoking
監督・脚本:ジェイソン・ライトマン


 俺が高校生の頃、出会ったコメディの傑作に「デーヴ」(93)という映画がある。
 大統領の影武者を頼まれた男が、大統領の死をきっかけにアメリカ政府を変えていく、という良心的、かつファンタジックなシチュエーションコメデイなのだけど、当時映画館であまり映画を見なかった俺が、たまたま劇場で見て、見た後しばらく興奮が収まらなかった映画である。ビデオ買って擦り切れるほど見て、LD、DVDも速攻買ってしばらく流しっぱなしにしてたほど大好きな作品。
 全くの政治の素人であるデーヴが大統領としての資質を発揮しはじめるのは、職業あっせん業で身につけたあつかましさと、論理的に物事を進めるディベート力だった。


 アメリカの良心はディベートにある。
 論理的思考こそ重要であり、そこには数によるパワーゲームは無意味である。自らの目的とそこにある問題点をを見極め、その上で自分の望む方向に話を進めていくこと。それこそが重要である、「ディベート」の素晴らしさを思い知らされた映画だった。


 さて本作である。
 シニカルな喜劇として宣伝されている。タバコ業界の広報ロビイストの目線から、嫌煙活動を皮肉に描き、ディベートによってタバコ業界の存在を肯定していく主人公。彼は自分を「日に1200人を殺す業界の顔」と呼んで憚らず、得意分野を「情報操作(スピンニング)」と呼ぶ。
 しかし、そうではない。いや、その通りではあるのだが、それだけではない。この主人公はただ、「真実」を隠さない。あらゆる者にはそれぞれの理がある。どのタイミングでどの「情報」を「開示」するか。光り輝く正義にもその間隙に闇はある。どんな正義漢にも、それぞれ事情はある。見事なタイミングで情報を開示することで、相手の論理的な矛盾をつき、自らの論理に正当性を見出していく。


 この映画の素晴らしいところは、一方的な論理で物事を裁く愚を描いてはいても、この映画は誰が正義で誰が悪か、という政治的な映画としての側面をキレーにかわしている点にある。第一、監督はパンフレット内のインタビューで「タバコは吸わない」と明言している。政治的に言えば、主人公とは反対側の人間なのだ。にも関わらず、主人公を肯定的に描く。なぜか。彼は「自らの善悪」に知悉し、真実をいち早く察知して受け止め、「利用」する「バランス感覚」を持っているからだ。それこそが、「ディベート」を進める上での、重要な力なのだ。


 この映画はたばこについての映画ではない。たばこをめぐる狂騒の話であり、そして、「ディベート」ってかっこいい、という話なのだ。


 離婚して離れて暮らす息子の目線も巧みにからめつつ、この男の奇妙な仕事を追い、彼の立て板に水を通すような明快な生き方を映しだしていく。
 やがて、主人公にもロビイスト人生最大のピンチが訪れる。タバコ業界にも見放され、社会的立場も失墜した彼は、息子の一言で一人の人間として、一人の父親として逆転の再起をかける。
 彼の武器。それは長年ロビイストとして培ってきた「ディベート力」。
 シニカルな喜劇のはずが、クライマックスの公聴会のシーンのころには、やがて喜劇の王道としての輝きすら帯び始める。それがこの映画の凄いところだ。何よりもオチで、見事にタバコ業界にも一杯喰らわす。この映画が政治的バランスを持った映画である証左であろう。


 さて、この映画を撮ったジェイソン・ライトマン。15歳で映画を撮り始め、卓上カレンダー会社を設立し、そこから得た利益で製作したコメディ「Operation」で、19歳で映画作家としてデビュー。CM作家として数々の賞を受賞し、本作が念願の長編監督デビュー作となる28歳の才人だが。彼の父親は映画監督アイヴァン・ライトマン


 「デーヴ」の監督でもある。


 幼き日のジェイソン・ライトマンも、その映画にカメオ出演しているのだった。
 親父の背中を見て育ち、コネとは無縁に信用を得てきた監督が、シニカルな物語を撮りながらも、「アメリカの良心」、「親子関係」の復活という「王道」のコメディとしての背骨を失わなかった理由。それが見えた気がしたのだった。
 というわけで、あえて言わせてもらおう。新たなる才能による「王道」コメディの秀作である。(★★★★)