虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「チェ 28歳の革命」

toshi202009-02-09

原題:Che: Part One
監督・撮影:スティーブン・ソダーバーグ
製作:ローラ・ビックフォード、ベニチオ・デル・トロ
脚本:ピーター・バックマン


 チェ・ゲバラについての2部作。その第1作目。まずはキューバ革命を成功させるまでの、彼の生き様を追う。


 映画をぼんやり見ながら思っていたのは、映画の中にソダバーグ監督個人がいるような感じがしたのだ。なんでそう感じるのかというと、この映画は政治的な映画ではなく、一個人・チェ・ゲバラが生きた時代の中に、ソダーバーグが入り込みながらも、そこに一個人・スティーブン・ソダーバーグアイデンティティを守りつつ、チェ・ゲバラ個人を追いかける、という形になっているように思えたのだ。


 彼はピーター・アンドリューズ名義で撮影監督もやっている。映画の世界の中に監督自身を放り込み、その上で、登場人物とは常に距離を置き、物語を監督自身と同化することを防いでいる。思えばソダーバーグ監督は、常にそのようにして映画を撮ってきた。それが彼自身にとって「物語る」ことへの距離のとり方なのだ、と思う。
 だが、本作において、その手法がより先鋭的になってきたように感じるのは、彼の「チェ・ゲバラ」という実在の人物への敬愛の情から来るものだと思う。と同時に、監督がアメリカ人であることとも、決して無関係ではないはずである。
 「チェ・ゲバラ」という題材に対してこの方法が有効なのか、といわれると難しい。硬質な中で行われる戦闘シーンの乾いたリアルさは素晴らしいと思うし、画的に「お!」と思う箇所もある。
 だが、少なくとも娯楽映画としてはあまりにもドラマ性に乏しい。ゲバラというアイコンが生まれる以前の、革命への情熱に突き動かされるゲバラを、ソダーバーグ監督の冷めたカメラが追うことで、彼の行動原理や価値観が少しずつ浮き彫りにしていくのはいいが、それにしても彼の内面にある革命への強い動機や、葛藤*1をこの映画は提示するどころか、必要以上にそぎ落としてしまったように見える。


 この映画は政治的な映画でも、ましてや革命をアジテートする映画でもなく、監督の「革命」をなしえた一人の人物へのあくなき好奇心がこの映画を支えているように思える。
 ただ、「アメリカ人」ソダーバーグ監督は彼への敬愛の念を持ちながらも、「彼」に「同化」ことは意識的に避けている。俺はあくまで俺だと。人間的にも政治的にも「彼と同じ」ではなく、あくまでも自身を中立に保っていることを示さねばならないから。だからこそ、この映画では「主人公」であるゲバラとの距離の計り方がより慎重なのだと思う。だが必要以上の抑制は、物語としてのドラマのダイナミズムまで霧散させてしまった。


 この映画は2つの時代のゲバラが描かれる。1956年と1964年。この映画がどちらを「現在」と規定しているかと言えば、それは「1964年」の方だと思う。1964年のゲバラの画面がつねに「モノクロ」で、1956年の方がカラーなのは、彼自身が革命に携わらずにいる自分へのいらだちなのではないか、と愚考した。色鮮やかな革命の記憶と、カストロの右腕としてキューバのナンバー2として生きる灰色の現在。そのかすかに燻る苛立ちの中で訪米した彼は、日々のインタビューや国連総会をこなす。
 インタビューや国連総会での言葉ひとつひとつが、彼が為してきた「闘争」の日々から生まれたものである。ひとつ、ひとつ。闘争を成功させるために地道な実務の積み重ねを行う日々。搾取される民衆への愛、搾取する圧制への怒りを糧に、武力闘争を続けてきた。そしてそれは成功した。だが、彼はいま、不本意にも「国家」を代表して、「アメリカ」にいる。


 この映画が闘争の日々のなかでゲバラの「革命への実践」を淡々と追う中で、もっともゲバラの「心からの叫び」を表現していたのが、「実在」の国連総会の壇上での演説という構成にしたのは面白い。そして彼の記憶は、キューバへと向かう船の中での志へと戻る。


 「キューバでの革命が成功したなら、その革命の火を中南米に広めたい。」


 その思いが、やがて彼をボリビアへと向かわせる。彼の記憶の中の、栄光の日々。そして、灰色の日々からのエクソダス。その結末は第2部へと続く。だが、そこへと至る内面の葛藤を推し量ることが容易ではない作品にしてしまったのはもったいない気がする。(★★★★)

*1:1964年のゲバラ