虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「ハプニング」

toshi202008-08-10

原題:The Happening
監督・脚本:M・ナイト・シャマラン



 僕はなんだかんだと「天才」に弱い。もっと言えば自分が「天才」だと思った人に弱い。


 僕が映画監督なり脚本家なりの人を「天才」と認知する場合、たいていその人には余人を持って近づけさせない「スタイル」がある。それはあまりに強靱でまるで呪いのようですらある。つまり、その「天才」と呼ばれる人が持ち得てしまった安易な模倣を許さない強靱な個性は、同時にその人の中にべったりと張り付いて離れない。
 「シックスセンス」でのシャマランの天才を、観客は当初「脚本」にある。と思っていた。けれど、今思うと次作「アンブレイカブル」でそれを否定しにかかっていたのではないかと思う。なにせスーパーヒーローの話だ。もっとシンプルな話にしたかったろうに、と思う。実際、最初はコメディとして構想されていたと聞く。しかし、「シックスセンス」の成功が、サスペンス以外の展開を許さなかった。以後、とにかく「どんでん返し」のシャマランの呪いはつきまとう。


 彼のフレストレーションが爆発したのが、前作「レディ・イン・ザ・ウォーター」だったのだと思う。あの作品を彼の慢心だと捉える人は多い。だけど、俺はまったくそう思わなかった。
 あれこそが、まさに「開眼」の一作だと思った。あの物語は、サスペンスの天才・シャマラン、という看板を取り外しにかかった作品だと思う。


 つまり脚本の整合性だとか、結末へのつじつまだとか、そういうのを一切廃し、世界のルールを自分で決める物語を構築したい!!という思いがにじみ出た作品で、そこにはただ不穏な状況があり、そのルールは変幻自在に入れ替わる。そんな、いままでのシャマランの作品とは明らかに違う、トリッキーな作風を誰もが拒否反応を示した。だが、それで彼にはその作品で、ある確信を得たのだと思う。「どんでん返し」などなくても、「俺」は「俺」でいられると。
 そして本作「ハプニング」でシャマランはついに悟りの境地にたどりついたのだ。


 本作は、基本、ワンルールである。それは、「風が吹くとき、人は死ぬ」。ただそのワンルールで、ただひたすら、不穏な空気と、非情な事の成り行きを次々と観客の前に突きつける。


 この映画はただそれだけである。しかし。俺にははっきりとわかった。今回、シャマランは、「どんでん返し脚本家」の呪いを脱ぎ捨て、遂に「監督」としての呪いを観客にかけようとしている。「結末に意味のないシャマラン映画に価値はない!!」と怒る人々を尻目に、彼はただただ、映像を紡いでいく。いつも監督がカメオ出演するお約束もなし、どんでん返しもなし、そして風の正体はなんなのか、茫洋としてわからない。
 そして、はっとするはずだ。シャマランらしからぬ構造の物語であろうとも、シャマランはシャマランなのである。どこを切っても、出てくるのはシャマランそのものなのである。本人が出演していなくとも、彼は映画そのものとなって、観客の前に居座ってみせる。そう、まるで世界を吹いて回る風のように。


 「ハプニング」にはシャマランは1秒たりとも映っていない。しかし、だからこそ、分かる。シャマランは、映画そのものになろうとしている。天才脚本家から天才監督への道へと、進もうとしているのだと。本作は高らかにその覚悟を宣言したのである。
 そしてその野望が果たされた時、世界はすべて「シャマラン」になる。まさに彼の、今後のターニングポイントとなる作品だと思う。(★★★★)