虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「ランボー/最後の戦場」

toshi202008-05-24

原題:Rambo
監督・脚本・製作:シルベスター・スタローン



 えー。うん。何から話せばいいか。えー。


 昔、ビッグコミックスピリッツちう漫画雑誌にほりのぶゆきという人が描いた「江戸むらさき特急」という漫画があって。一口で言えば様々な勧善懲悪時代劇の登場人物や歴史人物をパロディギャグにする4コマ漫画で。小中学生から好んでテレビ時代劇を見まくっていた俺は、もうその漫画が大好きだったんですけど。
 その中のネタのひとつに、歴史人物のひとり、大塩平八郎をパロディにしたキャラが出てくるんだけど。その「大塩」さんには股間に大砲そのものがついてて、「悪の存在」を知るとそれがむくむくと持ち上がり、大砲の「中のもの」を噴出させたくてたまらなくなる・・・という最低なキャラで。で結局それがもとで「大塩平八郎の乱」を起こすんだけど、大砲うちまくっていたら大塩先生スッキリしちゃって大塩平八郎の乱は失敗するというオチなんだけれども。


 今回のランボー見ててね、それ思い出した。大塩平八砲。


 さまざまなこの映画の批評を読んでてみかける、「ビルマミャンマー)軍政批判」だとかさ、「ランボーの人間兵器としての哀しみ」だとか、「ベトナム時代」や「アフガンの例の人の裏切り」だとか、そういうキャラクターとしてのドラマを漂わせてはいるんだけど・・・正直なことを言うと、「いろんな殺戮シーンが描きたくてたまらない」というスタローンの欲望の方があまりにギラギラしすぎている。
 今回のランボー、はっきりいって残虐モード全開なわけで、戦場の中の人間兵器としての描写としては大変申し分ないリアリズムだとは思う・・・のだよ。リアリティに必要な暴力描写に関していえば、俺もね、肯定的ではあるのだけれど、今回に関してはその「バイオレンス」のリアリズムに脚本が追いついていない。・・・いや逆だな。バイオレンス演出の方が脚本のリアリズムを抜き去っていったというのが正しいか。


 まず気に入らないこと。それは、ランボーの暴力の「肯定」の仕方。
 この映画、基本的には「暴力は何も生まない」というテーゼが根底にはある・・・・ということになってはいる。それでもなお、この映画が過剰な暴力描く「大義名分」になっているのはなにか、というと、「それでも暴力でなければ解決できないこともある」というシチュエーションにある、わけだ。
 この映画においてその暴力を否定し、戦場に赴くNPOの人々とのドラマにランボーが絡み、彼らがビルマ軍に捕らえられて、誰の頼みでなく自らの意志で、彼らを救出に来た傭兵軍団の中に加わる、というドラマが用意されている。それはいい。


 だが、ここでビルマ軍政がというイメージの元に、ビルマ/ミャンマー軍にあからさまな女子供も見境なく殺し、または強姦するなどの非道の限りを尽くさせて、「ランボー」が鉄槌を下しても「大丈夫」な「鬼畜」どもですよ!という筋道を通すわけなのだが。俺がひっかかるのは、そのミャンマーで振るわれている「暴力」の背景については、この映画は一切描かずに「非道」な一面を強調するのみ・・・ということで、


 自分は人殺しである。だからこそ、戦場には戻らない。人間不信に陥り、理解者も失って世界を彷徨っていた男が、皮肉にも非暴力で人道支援しようという女性の厚意に報うために、暴力のただ中に戻る。そしてそのためならば、殺戮をもいとわない。

 ランボーは好きになったひとのために自分自身を解放することで、己が何もであるかをもういちど自覚する・・・。そういうドラマではあり、その思いは過剰に詰まっているのも分かるのだが・・・そのためにここまで死体の山を築かなければならぬ理由を、ビルマ軍に押しつけすぎじゃないのかね、
 ここまで存在しているかもわからぬ想像上の血と暴力で購(あがな)わなければ、一個の人間を肯定できぬものなのか。俺の理解の許容範囲を超える話になってくる。


 自分を解放して死体だらけの荒野に佇むランボー。愛しのひとは彼を拒絶する目を向ける。それを見て逆にほっとしたように、孤独を受け入れて「故郷」を歩くランボー。だが、彼の通ってきた道に乱暴にいっしょくたにして死んでいった魂たちも存在する。
 自分の中の兵士としての衝動を解放して、悪辣な奴らは皆殺しにして、「スッキリして」アメリカに帰って行くランボー。だが彼の中の「股間の大砲」はまだ存在するのだ。またそれが「悪の存在」を感知して「ぐぐっと上がってくる」日はそう遠くないのではないか、などと思ったのである。それは「アメリカのアイコン」というより、もはやランボー本人の資質の問題になるだろう。彼が半永久的に持ち続ける、誰にも癒せぬ病なのだと思う。(★★★)