虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「ドラえもん/のび太と緑の巨人伝」

toshi202008-03-08

監督:渡辺歩
脚本:大野木寛
原作:藤子・F・不二雄


 ドラえもんとは。ご存じ未来から来た猫型ロボットである。


 という点を踏まえて、今回の映画について考える。


 さて。自分は以前、新シリーズ第1作「のびたの恐竜2006」の感想で、「ここからドラえもんの「映画」は始まる」と書いた。つまり、藤子・F・不二雄のものだった「映画ドラえもん」が監督たちの手に移った、と。
 本作は、そのの新シリーズの3作目(通算28作目)のドラえもんと相成るわけですが、今回は「いきなり僕たちが大長編ドラえもんのオリジナルを作るなんて、ハードランディングですよ!」ということで、第26巻所収の「森は生きている」と第33巻所収の「さらばキー坊」を叩き台にした*1長編となっており、前半部分は概ね、「〜キー坊」に沿って物語が進行する


 だが、このオリジナル要素を多分に含ませないと長編として成立しない話を、どのように付加を加えるかということに関して言えば、かなりハードランディングなことをやっている。


 「さらばキー坊」という短編は、「植物自動化液」をかけて生み出した木から生まれた「生物」キー坊とドラえもんとの交流を描きながら、やがて植物型生物による文明が、地球の植物を救うために、植物をすべて吸い上げてしまおうとする計画を知ったキー坊が、彼らを説得する、という話なのだけど。そこにドラえもん映画らしさを加えようと、試行錯誤した結果、「植物文明」はどこから来たのか、という主題が浮かび上がる。


 オリジナル要素として「植物星の女王さま」リーレが出てくることになるのだが、彼女は実際のところ、この映画の「もうひとりの主役」として設定されている節がある。彼女は自分たちがどこから来た文明なのか「わからない」ことに不満を抱いている。長老たちの彼女の中の「違和感」をもう少し上手く表現できればいいのだけれど、彼女にはそれが出来ない。
 そんな時に、いま議会で問題となっている惑星の「ニンゲン」であるドラえもん一行が、やってきたわけだ。植物型都市を抜け出した女王様が「ニンゲン」たちと迷い込んだのが、「森」なんだけど、そこには植物型以外の「ニンゲン」らしき種族が生きていて細々と生活している。彼らはなぜ森で生き続けているのか。


 だが、地球を「力で支配しようとする」長老たちがドラえもんたちを拘束し、地球を植物だけの世界に変えようとする。


 この映画の後半部分は、「ナウシカ」の原作版からの影響が色濃い。植物姫リーレの造形もナウシカ的であるし、植物星の放つ地球への「攻撃」も「腐海」的バイオレメディエーションだったりする。つまり、文明を飲み込み、自然に帰す力を彼らは用いたことになる。
 そして大長老が語る緑の星の真相は、腐海の謎を探ったナウシカがやがて知る真相に近い。進みすぎた文明から、彼ら植物人の生まれているとしているわけだ。エゴイズムだけを持った自然回帰思想が持つ醜悪さを、物語に込めた・・・のだろうが、この辺の意図が現状の地球の問題から離れすぎているし、キー坊の「巨神兵」化がさらに、主題をややこしくしている。



 さて、ここで映画「ドラえもん」のあるべき姿が浮かび上がる。
 ドラえもん宮崎駿が持つ「文明への悲観的かつ皮肉な目線」とは無縁の存在であり、「文明が紆余曲折を得て勝ち取った明るい未来」の象徴である。ドラえもんは、ある意味もっとも自然から遠い「文明の産物」である。藤子・F・不二雄先生は「さらばキー坊」の中で地球を救うのは、自然を愛する一人一人の心だ、と説きはしたが、決して文明への絶望を描いたりはしない。
 作り手が取捨選択したテーマは、ドラえもんという個性とは水と油であり、ドラえもん一行が背負うにはあまりに大きすぎる主題である。今回の件に関して言えばのび太以外は、ほとんど傍観者でしかないし、それに対して、のび太が出来ることはキー坊に水をあげ続けることだけ、というのでは、ちょっと問題の解決になっていないのではないか。
 それに、今現在の地球自体には深く踏み込みきれてないのは片手落ちの感もある。「地球」の問題と物語とリンクしてこそ、この主題は生きるのではないか。


 全体的に今回のドラえもんは、原作の短編を叩き台にしながら、かなり冒険的な試みをしていたと思った。それは決して成功していたとは言い難いのだが、その志は買いたい。だが、その志の方向を、もっと「ドラえもん」的なものに求めてもいいと思う。次回作はまたリメイクのようだけど、これにまた懲りずにオリジナルに挑戦して欲しい。(★★★)

*1:「森は生きている」は掴み部分だけ、という印象だけど