虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「ゾディアック」

toshi202007-06-24

原題:Zodiac
監督:デビッド・フィンチャー
脚本:ジェームズ・バンダービルト  原作:ロバート・グレイスミス



「ゾディアックは俺の仕事だ」(デイブ・トースキー)




 60年代末から70年代後半にかけて起こった実在の事件、実在した人物たちを材にとった映画である。


 3回見た。



 実を言うと1回目は公開2日目に泊まり勤務の後に急いで見に行った。


 1つの殺人事件が序盤に起こる。事件が発覚する。、犯行声明と暗号文が送られてくる。事件を追う2人の殺人課の刑事。犯人に興味を持つ事件記者。その推移を傍観する新聞の漫画担当。という事件に関わる4人の視点で物語は進み、そこに真犯人「ゾディアック」の悪意の標的になった者たちのエピソードが挟み込まれる。


 しかし、デヴィッド・フィンチャーとは思えぬ、地味な映画である。最初、俺はこの映画に視覚的な快楽を多分に期待していたせいもあり、体力なくても大丈夫かな?と思っていたのだが、暴力の理不尽に慄然とさせられる2つの殺人事件が、映像的見せ場として用意されるほかは、事件の推移が延々と綴られていく、というのが映画の前半部にあたる。
 2つの殺しの場面とストーリーへの興味でなんとか持ちこたえていた俺の体力も、2時間37分という上映時間とひたすら地道なストーリーテリングについていけず、主人公の漫画担当が落ちぶれた元同僚記者を訪ねにいく辺りで、恥ずかしながらついに撃沈。気がつけば。スタッフロールが始まっていた。


 しかし。


 後日。改めて再鑑賞して、俺は後悔した。きちんと体力のあるときに見るべきであったと。その煩雑にして、地道なストーリーテリングこそが、この映画のおそるべき前振りであると。



 前半部の主人公は、サンフランシスコ市警の刑事・デイブ・トースキー(マーク・ラファロ)だと思う。



 警察は殺人捜査のプロフェッショナルだ。しかし彼らには、司法の末端にいる、という縛りがある。逮捕には「物的証拠」が要る。そのためには指紋、筆跡などの鑑定による「お墨付き」がいる。さらには州境をまたいだ事件のため、管轄外の捜査はできず、常に「外」との連携を取りながらの捜査となる。
 しかも、「ゾディアック」の「メディア戦略」は警察の仕事を煩雑にしていく。スタンドプレーの記者によって上層部からにらまれる羽目になったり、毎日やってくる自称名探偵、自称「ゾディアック」の相手もしなけりゃならない。さらには、ゾディアックの無関係の事件への言及が、混乱を呼ぶ。
 そんな中で、ようやく、真犯人に近い男を見つける。アーサー・リー・アレン。元同僚の証言、変態的性癖、「猟奇島」への言及、さらには彼のしている時計。犯人と手袋、靴の大きさが一致する。もう心証は真っ黒。これ以上ぴたりとくる人間はいない!


 だが。ここで彼らに「プロフェッショナルゆえの壁」が立ちはだかる。「物的証拠」である。鑑定で、彼は明らかに「シロ」である、と断定されたのだ。馬鹿な、馬鹿な。あり得ない。しかし、鑑識は厳然とシロであるという。
 見落としはないのか。絶対なのか。しかしこちらは「プロ」だ。ゆえに、鑑識の「プロ」の言葉を、相手の「領分」は疑えない。捜査はふりだしに戻る。だが、有力な容疑者は見つからない。彼は息抜きへと映画館へ行く。話題の映画、「ダーティハリー」。だがその映画には「ゾディアック」から想を得た事件が描かれる。
 息抜きに来たはずが、彼は「ゾディアック」から逃れられない。耐えきれずにロビーに退出する。


 そこで彼に話しかけてきたの男がいた。ロバート・グレイスミス(ジェイク・ギレンホール)である。


 トースキーが七転八倒している間。本当の主人公・ロバート・グレイスミスは蚊帳の外にいる。彼は暗号を解読した縁で、事件に食い込んでいる同僚記者のポール・エイブリーと親しくなってはいくのだが、所詮「漫画担当」という位置に収まっている男なので、ゾディアックの「スクールバス襲撃予告」に振り回される程度の小市民ぶりを発揮していたし、事件の推移は気になってはいても、一般生活をおろそかにするほどではなかったし、再婚もして、彼女との間に子供も生まれた。私生活は順調であった。
 だが、彼の数少ない友人、ポールが事件にのめり込むことで「ゾディアック」の標的となり、次第に壊れていき、やがて職場を去ったことで、彼は事件の核心を知る術を失う。しかし、ポールと親しくなることで集めていた資料を、眺めるうちに、彼は、ボーイスカウトに入っていた頃に培った正義感と、生来の好奇心から事件の核心へと、足を踏み入れ始めることになる。


 いわゆる「趣味で事件を捜査」(by時効警察)である。彼はその過程で、トースキー刑事に会い、協力を求める。事態が膠着して袋小路に迷い込んでいたトースキーは、ダメ元で協力することになる。
 ここで。「事件を眺めていた男」と、「深く関わっていた男」がここで真に交錯する。


 俺は、この出会いがこの映画の鍵だと思う。入り口は単なる好奇心だったはずの、グレイスミスの「真犯人捜し」である。しかし、証拠偽造の疑惑をかけられて、異動させられたトースキーにグレイスミスは、この文の冒頭の台詞を投げつけられる。
 深く関わったものたちが、次々と脱落していく。彼が外から眺めていた頃の、ゾディアック熱は世間から徐々に失われている。「なんとかしなければならない」。彼に奇妙な焦燥が現れ、事件の真相へとのめり込んでいく。イノセンスな好奇心だけではない。異様な執着の色。それは「使命感」である。彼はトースキーやエイブリーの挫折までも自らの内に抱え込んでしまったのである。


 それゆえに彼はエイブリー風「スタンドプレー」を行いもするし、仕事に支障が出るほどに動き回る。資料を読みあさり、情報提供者には自ら出向く。本の出版計画を新聞のコラムに載せるわ、テレビに出るわで、子供たちの安全面すら犠牲にする夫に、奥さんは完全に愛想を尽かして実家に帰る。それでも彼は調べるのを止めない。止められないのだ。「なぜやるの?」と問う奥さんに彼は答える。「僕しかいない。」


 その過程で彼は2人の「容疑者」と出会う。一人は[リー]。もう一人は[ボブ・ホーン]という男。映画は事件に複数の者が、別々に関わっていた可能性も示唆する。



 真相はどうなのか。映画は一応の結論を導き出す。だが、それは決定打ではない。いや決定打である必要はない。
 この映画の結末は確かに苦いし、皮肉に満ちていると思う。だけど、だけど、グレイスミスが人生の多くを投げ打ってまで導き出した結論は、一人の刑事の心を救ったように思う。


 深夜のファミレスで、グレイスミスからすべての説明を聞き終えたトースキーは、テーブルにお金を置きながら言う。


「いい朝食だった。」


 そしてゆっくりとレストランを後にする彼は、どこか晴れやかに見えた。俺が、そう信じたいだけなのかもしれない。必死なアマチュアリズムは時にプロフェッショナルを救う。そういうことがあっても、いいのだと思う。そして、それだけでもグレイスミスの行動には価値があった。それで、十分なのだと。(★★★★★)