虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「パプリカ」

toshi202006-11-27

監督・脚色:今敏 原作;筒井康隆 脚色:水上清資


 夢とは何か。それは記憶によって作られる。いつか見た場所。いつか見た人。いつか見た景色。既視の事物による、見たことのない出来事、思いも掛けない行動をする自分を発見する。


 夢は連続する。思いも掛けない展開を迎えようとも。目覚めるその時まで。


 この映画における夢とはなんなのか。実は夢のようで夢ではないのではないか。と見た後に思った。
 「夢をモニターする」技術という原作のアイデアをどのように視覚化するか、という過程で、この映画の視点をどこにもってくるのか、という問題をこの映画はあえて放棄しているように見えた。夢が夢を呼び、他人の夢を、そして現実を浸食していく、という物語構造の中で誰が誰なのか、ということそのものが意味を為さなくなっていく。シンプルな人間関係の中で、紡がれる悪夢。その悪夢はいったい「誰」のものか。


 この映画の夢は、夢のようで夢ではない。「途切れる」のだ。「夢をモニターできる」という設定によって夢と現実の登場人物の視点をごっちゃにして、切り替えてしまうためだ。だが、夢とは、たとえモニターできたとしても、見ている当人から見なければ「夢」ではないはずなのだ。
 そういう意味では本当の主人公はパプリカでも、千葉敦子でも、いわんや所長でもなく、夢を見ている当人のはずだ。だが、複数の視点での夢の共有が始まり、映画の中の夢が「連続性」を失ったとき、それは「悪夢」から「悪夢的な世界」へと変貌をとげる。
 ただ、そうなると、この映画の本来描くべき夢からは遠いものとなっていく。いつしか、映画は「いつか見た映画の悪夢」という記号の連打となっていく。借り物の変身、借り物の演出で。


 宮崎駿(または高畑勲*1)、押井守ウォシャウスキー兄弟(またはクローネンバーグ)。そしてあまたのジャンル映画。


 いつか見た、映画の記憶を今敏は再生産し始めるのである。この人は取材に根ざしたデザインをすることが多いのだが、今回はそれが仇となったように思う。今回の悪夢的世界という名の「ファンタジー」の領域へこの映画が踏み出したとき、今敏のイマジネーションに限界が訪れたのだ。
 その場限りの悪夢。「連続しない悪夢」へ。
 パプリカの変身も、彼らが見る悪夢も、「いつか見た衣装」「いつか見た映画」だ。しかしそれは所詮「借り物」に過ぎず、今敏の「オリジン」として昇華するには至ってないように見えた。その映像は「既視感」だけが残る。今敏の手がけてきた領域からは遠い、っというのがその遠因ではないかと思う。*2


 これまでの作品で今敏の見せてきた悪夢は、連続する「体験」の中にあった。それを覆したときに映画の魅力は半減したのではないか、という気がするのである。
 今敏映画特有の「トリップ感」を感じることも「悪夢」を共有することもなく、気がつけば文字通り醒めた目で「借り物のファンタジー世界」を見る俺がいたのである。(★★★)

*1:悪夢に冒された人の描写でなぜだか「平成狸合戦ぽんぽこ」を思い出した。

*2:見た後俺が思ったのは「これを宮崎駿がやったら、恐るべき傑作になっていただろう」だった。