虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「紺野真琴」の快感原則

toshi202006-10-08



 「レディ・イン・ザ・ウォーター」の感想・・・は、先の心配どおり長くなりすぎて要領を得なくなったので一旦捨てました。ごめんなさい。必ず書きます。


 でまあ、ぜんぜん関係ない話になるんですけれども。そんな俺が最近「うお!」と思ったCMがあるんです。


グリコ・ポッキーCM 「はじける極細篇」30秒ver
http://www.youtube.com/watch?v=CeorNIw7YIg


 このCMに出てる娘が「新垣結衣」というアイドルとはぜんぜん知らなくて、どっかで見たかもしらんけど覚えてなくて。で、このCM見て「うお、かわいい」と思ったんですが、なんていうんですかね。俺が「かわいい」と思ったのは容姿ではなくて、この踊りである。ヘタウマというべきか、なんというか。踊りのようで踊りでない、というか。


 「これはなんだ?」と。


 おれ自身、アイドルや若手女優が出るCMで容姿に反応することはあっても、CMの映像自体に快感を感じることはないんですが、この踊り、見ていてなんかね、気持ちいいんですよ。はっきり言ってしまえば、彼女の「動き」に心奪われてしまったわけです。妙なインパクトがある。これはね、不思議ですね。心にひっかかる。
 たとえば、もっとうまく踊ろうとすればもしかしたら踊れるのかもしれない。かっちりとした綺麗な、完成度の高いダンスなんかをね。だけど、あえて、この不安定な踊りで通した、というのは実はものすごい慧眼なのではないか。などと、ぼんやり考えていたわけですが・・・。



 そんな時、ふとあることが腑に落ちた感じがしたのでここに記すことにしたのである。


 「時をかける少女」について、である。


 今年の夏、数ある映画の中で、最大の反響を巻き起こしたのは、まさしくこの作品だと思う。


 俺もいろいろなサイトでこの映画に対する反響を見てきたが、これほどまでに絶賛評が集中した作品もないのではないかと思う。9割3分くらいの割合で絶賛、もしくはそれに近い反響が目についた。気がする。しかも残りの評もネガティブでは決してないあたり、驚異的。いやパーセンテージは体感割合だけれども、そのくらいの勢いは否が応にも感じざるを得ない。


 まあ、そんな絶賛の暴風雨ともいうべき「時かけ」であるけれども。


 では、この作品が歴史的な大傑作であるか・・・と言われると、どうなのだろう。たしかに、「よく出来ている」とは思ったのだが、じゃあ映画としてえげつないほどの「完成度」かと問われると違う気がするのである。映画としての出来自体は「秀作」という程度のものであった気がするのだ。
 SF的な部分ではやや反則ぎみなことをしていると思うし、タイムリープの回数制限、という縛りもよくよく考えると意味わからん。それに脇を固めるキャラクターも、リアルというよりは、やや「少女」にとっての理想的なシチュと、カテゴライズ可能な「キャラ」然とした登場人物が多数登場するあたりに、映画としての「リアル」からはやや遠い感もある。なにより、いまどきの女子高生としてはやや幼すぎる描写が続くあたり、どうなの?と思わなくもない。
 つまり、「欠点」をあげつらおうと思えばいくらでもあげつらえることの出来る作品ではあると思うのだ。


 そこに俺が長く抱えていた違和感があった。決して完璧ではない作品の、この絶賛割合の差。「欠点」を大した瑕とは思わせずに、最終的に観客をうならせてしまったものは何か。


 考えられるのはひとつ。
 「紺野真琴」というヒロイン。しかも、映画的リアルすら埋めるほどに「愛すべき存在」として皆が認識し、そして共感する存在としての魅力が彼女自身にあったのだ。でなければ、これほどの圧倒的支持は得られはしないだろう。


 しかし、なぜ、彼女がそこまで支持を得たのか。これがわからない。
 彼女についてはけっこう多く語られてきた感がある。「のび太な女子高生」「頭悪い娘萌え」、「馬鹿っ子萌え」という、ある種のカテゴライズ化する形で。


 だが、ここまでの広範な支持を得るとなると、なんらかのカテゴライズだけではおさまらない「なにか」がある気がするのである。だがそれが思いつかなかった。
 改めて考えると彼女には突出した「個性」がない。


 彼女は馬鹿ではある。だが、頭は悪くない。考えなしに行動する類の馬鹿ではあるが、自分の行いの結果を受け入れられないほど愚かではない。勉強は突出して出来もしないが、まるっきり勉学が駄目というわけでもない。彼女は運動神経はあるが、体育が完璧に出来る娘でもなく、スポーツは好きだが、部活動はしない。文化部的屈折もなければ、体育会系な竹で割ったような明朗さも持ち合わせてはいない。容姿も決して悪くはないが、女の子らしい色気にはやや欠ける。決して悪い娘ではないが、ずるく立ち回る汚さも持ち合わせている。突き抜けてかっこいいわけでもなく、突き抜けてかわいい訳でもない。かといって不細工でもデブでもない訳だ。


 しかし、「平凡」なだけのキャラクターではない。


 つまり。彼女の、多くの観客を引き付ける魅力とはなにか。



 ・・・これが長くわからなかったのだが・・・新垣結衣の「踊り」について考えていて、はっとしたのであった。


 「未完成」。彼女は躍動する「未完成」なんである。
 「なにも決定されていない」明朗少女。なにも決定していない。自らを決定してない少女。居場所があるようで、実は曖昧。未来自体がゆらいでいる。将来設計なんて言葉は彼女にはない。タイムリープを使うにしても後先考えない。勢いはあるけれど、確信のない「不安」がついて回る。「そこ」にみんな引き寄せられる。
 彼女自身が自分のキャラクターを規定していない。だからこそ危い。そこにこそ、男子ですら共感可能な存在となりうる余地があるのではないか。


 その「未完成」な彼女がなにかを「決定」するために「躍動する」。それこそが彼女が、観客に与える快感原則だったのだ。
 時に馬鹿をやり、時に悩み、時に逃げ、時に追い、時にずるがしこく、時に優しく、時に笑い、喜び、そして泣く。その行動のすべてが「未来を決定しない」という、彼女自身のキャラクターのなかで行われている。


 そしてクライマックス。彼女は自らにある「決定」を下し、躍動する。だからこそ、みんな彼女を応援したくなるのではないかと。物語とは理屈ではない。理屈の先にある感情を喚起する力である。とするならば、この作品の「真の力」とは「完成度の高さ」ではなく、「未完成」な部分の危うさ。


 「未完成」なヒロイン自身の「危うさ」のなかにこそ、その魔力が眠っているのではないか、


 などと愚考した次第でございます。


 ということで。


 この話、「レディ・イン・ザ・ウォーター」の感想に続く。かもしれない。*1

*1:今思いついた。続かなかったらごめんなさい。