虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「レディ・イン・ザ・ウォーター」

toshi202006-10-09

原題:Lady in the Water
監督・脚本:M・ナイト・シャマラン


 いや度肝抜かれた。



 だってヒロインが「水の精」で名前が「ストーリー」。で、それこそが世界の真実で、その断片がアパートのそこらじゅうに置いてあって、そのアパートの中の世界がおとぎ話に変わっていくという・・・。なんだこれは。なんなんだこれは。最初見たときの感想は「意味わかんなかった」んですよ。「ええええ」という。
 ところがですね。「つまんなかったか?」と言われると不思議と、そんなことはなくて。「意味わかんない」でこき下ろす、というのは可能なんだが、俺には不思議とそんな気が起きなかったんですよ。だって、俺、普段のシャマラン作品を一通りみてきてこの映画を見ると、ちゃんとシャマランの作品ではあったと思うのだ。つーか、こんな映画シャマランしか撮れないだろう、という確信はあるわけです。

 なによりも、この映画の中には、確実に感じたのだ。シャマランの「物語る意志」というものを。つーか、もう、それだけの作品と言ってもいいのではないか?

 
 で、気がつけば3回くらい見ていました、俺。
 えー、さて・・・



 シャマランは「確信」の作家である。




 彼が物語を語るとき、彼は世界に隠された「真実」を彼は確信している。その真実とは、世界の「バグ」ともいうべき、「フィクション」として語られてきた「要素」がゆっくりと世界そのものに浸食し、やがて、その「浸食」が白日の下にさらされる。シャマランにとって、フィクションとは世界が「異物」、つまり「フィクション要素」を受け入れる過程を描いたものだった。


 方法論自体は今回も、実はまったく同じだ。だが、今度の世界の真実が「おとぎ話」という名のストーリーに変わっただけのことだ。だが、それこそが、シャマランにとって自らの方法論を問われかねないほどの命題だったと思うのだ。


 これまでのシャマランの作劇というのは、観客のB級なものを受け入れる入り口がものすごく広く作るための方便でもあったろうが、と同時に彼自身の「知性」や「批評性」が直接的に描くことをためらわれる、だけど愛して止まない*1「B級的なるもの」を自らの手で語るための方法でもあったのだと思う。
 彼は「アンブレイカブル」は撮れても、「スーパーマン」は撮れない。「サイン」は撮れても、「インデペンデンス・デイ」は撮れない。
 彼自身の中にはいつも「世界の異物」を愛する自分と、それを冷静に見つめる自分がいて、それが常に拮抗していたのが、世間でいうところの「シャマランスタイル」と呼ばれるものになっていったのではないか、と思うのだ。


 しかし、今回の題材は「物語」、しかもおとぎ話なんである。


 今回の確信するべきは「物語」のなかの「真実」。だが、それは常にゆらぎ、だからこそ「予断」は許されない。「ジャンル」というかっちりした確信ではなく、曖昧模糊とした「なにか」を世界と掛け合わそうとする。
 おとぎ話。
 それは「世界そのもの」というにはあまりにも弱々しく、はかなく、未完成。まるで「水の精」のように。おとぎ話が世界そのものになるために、必要なものはなんなのか。彼の中で、おそらく様々な葛藤があったろうが、ひとつの結論に達したのだろう・・・と思う。


 それは「確信」する自分を、物語に対して「傲慢」な自分を「殺す」ことだ。


 今回の物語の狂言回しはP・ジアマッティ演じる「クリーブランド(断崖絶壁)」さんであるが、実はもう一人、いたのだと思う。それは誰か。「B13」の男。ボブ・バラバン演じる「映画評論家」の彼である*2
 はっきり言えば、「シャマラン映画」という観客の「予断」そのものなのだ。彼は。シャマランなんて所詮似たようなもんだろ、という「予断」で作品すべてを断定して良しとするものだ。しかし、その予断は「ストーリー」を時に傷つけ、時に殺すのだ。
 この「映画評論家」を殺したこと、さらにシャマラン自身が「世界を変える物語作家」という役柄を演じていることで、この映画で「シャマランは傲慢になっている」という論評が多く見られたのだが、俺は逆に「自らを殺した」のだと思った。彼の中の「おとぎ話」を分析する知性を殺すための儀式だったのだと思う。


 すべては「ストーリー」のために。


 物語のなかの「真実」というものはあまりにも弱々しい光だ。手でふさげば、目を閉じれば、簡単に消えてしまうものだ。目を凝らして対峙することで、少しずつ見えてくるものだ。物語の可能性を狭め、常識に囚われ、「カテゴライズ」して、分かったふうな口を利くのは簡単だ。だが、物語を十全に楽しみ、その真実を受け入れるためには「リアル」に囚われてはならない。カテゴライズして、満足しても、それは所詮物語の真実からは遠ざかってしまう。
 


 物語を殺すのは簡単なのだ。物語を生かすには受け入れるしかない。すべてを。


 
 物語のために「世界」そのものを変えていい。語り部としてのシャマランはついに、その真実に気づいた。ここにシャマランの新たな躍動がある。「未完成」な映画ではある。しかし、ここには確実に躍動する意志が、「リアル」に恃まず「物語」に殉ずる者の意志があるのだ。
 そんな映画を俺が嫌いになれようか。なれるわけがない!好きだ。大好き。(★★★★)


追記:
または私は如何にして心配するのを止めて「水女」を愛するようになったか
http://d.hatena.ne.jp/toshi20/20061101

*1:この辺の複雑な愛憎が彼の特殊なところだと思う

*2:キャスト紹介でも3番目だったりする