虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「ダ・ヴィンチ・コード」

toshi202006-05-20

原題:The Da Vinci Code
原作:ダン・ブラウン 監督:ロン・ハワード 


 「ダ・ヴィンチ・コード」を観た。正直なことを言えば面白くなかった。


 物語、というもの。それを愛する俺にとって、これはおよそ「物語」ではなかったからだ。この映画はおよそ、物語であろうとはしないからだ。この映画は直球のミステリーのようでいて、実はかなりの曲ダマであること。映画にした途端、それが如実に表れた、ということかも知れぬ。


 この映画の物語において、彼らが手に入れようとしたもの、覆い隠そうとしたもの。それは「一片の真実」、のようにみえる。それは、たとえば宗教を揺るがす、一大スキャンダルであろう。だが、それがなんだというのか。信ずれば見える。そういう「セカイ」(内宇宙)の話である。
 ダ・ヴィンチテンプル騎士団ニュートンと言った歴史上の重要人物すら巻き込んだ、壮大なナゾと真実。そして、その顛末。だが、それはあくまで仮説に過ぎず、仮説を「真実」として提示した「ネタ小説」なのだ。ネタをネタとすら思えない連中によって、今やこの騒ぎだが、この映画が描こうとしたものは、一人の作者の「信仰」、つまり、この物語作者からみれば、モナ・リザはこう見える、最後の晩餐はこう見える、それらを組み合わせていくとこういうことなんですよ、という話であろうが。それは作者の「セカイ」から見たキリスト教の真実ではあろう。


 でもそれは「世界」(外宇宙)にとっての真実とは限らない。


 この映画がなんで騒がれているかと言えば、見た人にとっての「セカイ」の成り立ちに関わる問題だからであって、「世界」にとっては特に問題ではないのだ。
 だってこの映画において明かされるのは千年にわたす壮大な陰謀だよ?そんな、この映画は、そんなことあったかもしれない、という仮説の積み重ねから生まれたホラであり、よくよく考えれば、世界はそんなにヒマじゃない。
 そもそも話の発端である、キュレーターの爺さんの死に様でさえ突っ込みどころ満載なのだ。ダ・ヴィンチが書いた「人体図」に見えなければ、「変な死に方をした爺さんの事件」で終わりだ。「世界」にとって一人の人間の死なんてそんなもんよ、と俺は思う。


 この話の面白いところは、「誰でも知ってる有名な事物」にそんな、「誰も知らない真実」が隠されているのだ、というまことしやかなホラが、読んでいるものの知的な好奇心をくすぐるからだが、言ってみれば、それだけともいえる。
 この映画は、そのネタを愛する人々に向けた映画であろう。つまり、2時間半以上かけた壮大な挿絵。挿絵は提供したから、原作を愛してくださいね、ということであろうよ、と観ながら思った。こう見える、というのはあくまでも解釈に過ぎない。


 この映画を面白かったと言えば面白かったというものもいよう。つまらなかったというものもいよう。この映画を観て、目から鱗が落ちたと思えばそうなるし、「プゲラ」で済ませばそれで終わり。
 じつは我々のいる世界は同じでも、見ている「セカイ」は違う。違う「セカイ」との出会いは面白いものだ。我々とはちがう秩序で世界を眺めれば、退屈な世界も新鮮に映るの道理だ。
 だが、この映画は、あくまで数ある中の「セカイ」の一つに過ぎない。それを知っていれば、こんなバカ騒ぎは起きないはずだし、製作側がいちいち「この映画はフィクションですよー」と断らなくてもいいはずなのだが、それが分からないひとは大勢いる。人は度し難く愚かに出来ている。俺も含めて。それこそが神の配剤なのだなあ、などとこの映画を見て考えたのだった。


  ま、それを踏まえたうえで、映画はイマイチだったのだが。演出自体は悪くなかったが、千年に渡るナゾをさっさか解きすぎて、頭いいふりをした電波の集まりに見えるのだった。この手の話に重要なのは結論ではなく過程なのだが、それをショートカットしてすっ飛ばしまくってるのが問題だと思った。(★★)