虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

ワールド・テラーたち

toshi202006-03-25




 今月はじめに新刊が発売されたのもあって、久しぶりに「HUNTER×HUNTER」をG.I編辺りから読み返してみた。つくづくストーリーテリングが天才的である。この天才性って過小評価されてない?多くのキャラクターを同時進行で描いて、影響を与えるもの受けるものの波紋を描き尽くす腕力。しかもファンタジーで。それを当たり前のようにやっちまうんだから、すごい。
 この天才性って宮崎駿の「ストーリー・テリング」の天才性*1と同質なんだが、どうも、この辺をわかってないひとが多い。それを週刊連載で続ける苦しさってまるで語られないのは大変口惜しいことではある。しかも、漫画読みの人ほどないがしろにしがちなのはどうなのか。このレベルの高い作劇をあまりにもナチュラルにやってしまうがゆえに気づいてもらえない弊害だと思う(わかりやすく「リアルタイム」に回る世界を提示したのがドラマ「24」)。


 俺が「天空の城ラピュタ」の作劇で一番すげえと思ってるシーンがひとつある。それはパズーがシータに「やあぁるぞおおお!絶対にラピュタを見つけてやる!」と言ったその直後に敵の飛行機が襲ってくるシーンだ。あれをご都合主義ととる人もいるだろうが、しかし、あのシーンを凡百の作家が書いたなら、絶対ああいう展開にはならない。
 あの「やあるぞお!」はパズーがシータと世界に向けて行った大宣言だ。物語上でも重要だ。あれは一つの見せ場として盛り上げちゃったりしてもおかしくはない。しかし宮崎駿はそんな彼の「大宣言」とは関係なく「世界を回す」。主人公やヒロインの意志とは関係なく、「世界は回る」。それが宮崎駿という作家の凄みだ。それゆえに、現代人では考えられない身体能力を有するパズーですら、夢や思いを何度も試される。
 やがて彼らが幻の空飛ぶ島、ラピュタで生死と世界をかけた大冒険を繰り広げている間にも、彼らが帰るべき世界の営みは、実は変わることなく続いている。ラピュタのラストで見える街の灯りが妙に暖かいのはそんな世界をきちんと描いているからだ。


 冨樫義博もそういうことを平気でやる。G.I.編で徒党を組んでクリアしよう、と持ちかけてきた連中とゴンは決別する。その後、その連中は一人を残して、非情な結末を迎える。あの中にゴンがいたなら、同じように爆殺されていただろう。ハンター試験でゴンたちと一緒になったポックルやポンズは蟲が進化した世界で、あっさりと命を落とし、蟲のエサとなった。あれは、もしかしたら、ゴンやキルアもそうなってたかもしれない、もうひとつの姿だ。世界は人間にとって平等に酷薄だ。ゴンもキルアもそういう世界で生きている。
 そんな世界で必死にサバイバルしている間、かつてハンター試験で親友となったレオリオやクラピカは、彼らの生死に関係なくそれぞれの人生を生きている。


 いま、週刊少年ジャンプで連載中(4月まで休載中)のキメラアント編は、ゴンたちやハンター協会が、東ゴルトー(独裁国家の小国)の人間を皆殺しにしようとする蟻の軍団を、なんとか殲滅しようとする闘いが描かれているが、そんなゴンたちの思惑をよそに、最新刊23巻では、酷薄なる蟲の王が将棋や碁といったテーブルゲームの最高位と対決し、相手が負けたら殺す、というゲームを始める。おそるべき吸収力でゲームのコツを飲み込み、最高位の名人を次々と死へと追いやる王。そんななか、「軍儀」というゲームのチャンピオンである、アカズ(めくら)の少女が現れる。鼻水をたらし、髪はボサボサ、言葉はなまり、その国の最下層として生きてきた彼女。だが、このゲームで「生かされてきた」彼女は、尋常ではない強さで、王を下していく。彼女の中に真の知性を見る王。
 そこから先の物語は24巻以降となるわけですが。重要なのは、いままで東ゴルトーの人間をエサとしてしか認知してこなかった王が、初めて人間を「人間」として認知する。しかもその相手が、「軍儀」以外ではなんのとりえもない少女である。彼女がもし、このゲームに強くなかったなら、おそらくあっさりと蟲のエサとして殺されただろう相手に対して、彼は初めて「人間」を意識する。。


 「世界を回す」のは人だ。だか、その「回る世界」に翻弄されるのもまた人だ。人は世界に生かされていることを忘れる。人は所詮「世界の一部」。それ以上でもそれ以下でもない。
 彼らは幸運にして生を得る。弱者が幸運に生き残っていくこともあれば、強者が死ぬときはおどろくほどあっさりと死ぬ。そして、その生死に関係なく、世界は回る。その当たり前を描く。それはつまり、非情な世界そのものを「物語ろう」とするものだ。それこそが天才と言えるのではないかと思う。そんな物語を週刊少年誌で読めるのだ。我々は実は幸運な時代にいる。

*1:おれが宮崎駿に惚れてるのはアニメーターとしてよりもむしろ、作家として物語に変わることなく向かい合う態度だ