虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「SAYURI」

toshi202005-12-15

原題:Memoirs of a Geisha
監督:ロブ・マーシャル


 うわあ、なんじゃこりゃあ。面白かった。奇っ怪で。
 これが見終わったあとの、俺の率直な感想。その混乱も含めての。


 あるゲイシャの物語である。


 漁村に生まれた少女・千代は、両親の貧苦から9歳にして姉とともに苦界へと堕とされた。売られたのは「はなまち」の女郎屋「置屋」。「おかあさん」と呼ばれる女主人(桃井かおり)はゲイシャとして千代を仕込もうとしていたが、再三にわたり「はなまち」から脱出しようとした千代は、下女として扱われてしまう。置屋の稼ぎ頭の初桃(コン・リー)からはことあるごとに目の敵にされ、両親もまもなく死んでしまい、帰る場所のない彼女は泣き暮らす。だが、ある日橋の上で泣いていたら、「会長」さん(渡辺謙)と呼ばれる紳士に慰められる。彼女は彼のやさしさに触れ、彼に強い思慕を抱く。そして決意する。あの人のために、「ゲイシャ」になるのだと。
 転機は15歳の時に訪れた。当代随一と言われたゲイシャ・豆葉(ミッシェル・ヨー)が置屋を訪れ、千代を指導したい、と言ってきた。15歳まで下女をしていた千代だが、豆葉の指導と、彼女の「会長」への秘めた思慕からくる強固な意志の力で、ゲイシャとしての「芸」を身につけていく。そして、彼女は「あの人」を「ダンナ」(上客のことらしい)にするために、ゲイシャ「さゆり」(チャン・ツィイー)として、愛憎渦巻く世界へと向かっていく。


 
 ロブ・マーシャルは天才だ。それは初監督作である「シカゴ」で証明済み。ただの舞台の映画化では済まさない、物語る意志を感じさせる「映画」。女たちの醜い争い(&それに巻き込まれちゃった男の悲哀)を美しく描ききった傑作だった。で。本作はその彼の、満を持しての第2作なわけだ。それを見たわけだが、そこに描かれていたのは、ぎょっとするほどわけのわからぬ、日本という名の違う国だ。
 日本を題材にしたファンタジー、というのはまあ、そうだ。だが、西洋人ながらリアルかつつまびらかに描かれたゲイシャの一代記だった原作を叩き台にしながら、ここまでやるかというほど、地に足つかない日本を描いてるのだ。あまりにも突き抜けすぎた別世界。この映画に関して言えば、あまりにも虚構に踏み込みすぎている。勘違い日本、というレベルを超えている。

 しかし、そこに一切の迷いがない。中途半端にリアルにしようとしたらこうはならない。そこに、ロブ・マーシャルの明快な意志があるのだ。リアルに恃まない強烈な意志。これは天才にしかできない仕事である。

 虚構としてここまで明確な意志を持って踏み込んだということは、普遍的な「描くべきもの」がロブ・マーシャルのなかに強烈にあるからにほかならない。それは、花街という「閉ざされた世界」でしか生きられない女たちのあまりにも醜い暗闘、そして、そうせざるを得ない彼女たちの哀しみ、であろう。つーか、「シカゴ」でもそうだったが、この人、こういう女の暗闘描くの大好きなんだな。あまりにもそっちを熱心に描くあまり、「あの人」の描写がぞんざいになるほどに(笑)。愛されたい、ただそれだけのために。女たちは、足を引っ張り合い、堕とし合いながら、ゲイシャの高みを目指していく。
 そんな戦いを勝ち抜くには、ヒロインも純粋ぶってはいられない。純粋な「思慕」から望んで苦界へと踏み込んでしまう「狂気」を宿す「さゆり」、愛されたいという女としての喜びを求めるがゆえに「ゲイシャ」として足を踏み外していく「初桃」、「さゆり」の台頭によって「夢」を閉ざされてしまい流転の人生を歩む「おカボ」(=工藤夕貴。意味:パンプキンたん)など、描かれるは女の戦いの勝者の苦み、敗者の苦しみ、である。


 そんな美しき泥試合を演じる女たちのなかで、もっとも輝いていたのは、ツィイー嬢でも、ヨー姐でも、コン・リー女史でも、言わんや工藤夕貴でもなく、桃井かおりだったことは、日本映画界にとって大きな収穫だと思った。ヨー姐を前にして一歩も引かぬ人間力を披露し、物語と泥試合の泥をかき回す、きまぐれなトラブルメーカーの女主人(おかあさん=グレートマザー)を嬉々として演じている。
 もしこの映画が、アカデミー賞に絡むなら、是非とも彼女にアカデミー助演女優賞をあげて頂きたい。その価値はある名演であった。


 さて、話を戻す。
 明快な意志に貫かれたファンタジー映画。だが、難点がないかというと、実はある。
 マーシャル監督が描こうとしているのは醜い争いもそうだが、もうひとつ、「日本的な恋愛」であると思う。つまり、西洋的な「押し」の恋愛ではなく、あくまでも日本的な「引き」の恋愛である。だいたい千代の決断って、西洋人からすれば、いささかわかりにくいものなのではあるまいか。あの人を落とす=ゲイシャになる、って発想が。ものすごく回りくどい。肉体を軽く開かず、芸と仕草で男を「引き入れる」道を千代は選ぶのだ。
 だが、その描き方が、いささか「西洋的」になったのが、玉に瑕と言える。踊りのシーンで言ってみれば、彼女の秘めたる思いがあふれ出る場面として描かれているのだが、そのダンスはあまりにも激しすぎる。「シカゴ」の場合はそれでも通じる。だが、日本的恋愛としては、いささか直截的に描きすぎた*1。もっと、静かににじみ出すように描かないといけなかった。


 そういう「肝心要」の部分を見誤っているところが、観客の混乱に拍車を掛ける結果になってる気はするが、さゆりを「意志をもってゲイシャになったオンナ」として、踏み込んで描こうとしたその意気は大いに買える。天才が日本について冒険した、貴重な作品と捉えたい。(★★★)


追記:で、この映画について、あまりにもわかりやすいもうひとつの感慨があったんだが、それが、「SAYURI」=「千と千尋」+「千年女優」、という、オタらしい安直な発想でW。でも、ヒロインの境遇と桃井のキャラ付けは「千と千尋」っぽいし、あこがれの「あの人」を追って「苦界」を行くヒロイン、って展開は「千年女優」そのもの。しかも、ヒロインの名前は千代ですよ。出来すぎじゃね?とか思ってたり。


公式サイト:http://www.movies.co.jp/sayuri/

*1:同じような西洋的行き過ぎがあった「ラスト・サムライ」では、それが美点と映ったのは面白いと思う。