虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

再見する日々。

toshi202005-05-08



 映画を見るということは一期一会だ。


 俺の中で映画を見るということはそういうことだ。一度しか見ないかもしれない。だから、貴重であり、得難い経験となる。
 だから大抵の映画は一度きりしか見ない。DVDで買って見るのは、また別だ。それは見に行くのではなく、「所有する」のだから、意味合いが違う。所有した映画を見れば同じことじゃね?という人がいるかもしれないが、俺にとっては全然違う。それを見るのは、アルバムの写真を見返したり、家族のビデオを見返す行為と一緒であり、鑑賞した「経験」を思い出す作業に過ぎない。

 そう。映画鑑賞とは「映画を経験する」ことなのだ。


 だが、時にあの「経験」をもう一度繰り返したい、と思う時がある。そう言うとき、もう一度同じ作品を見に劇場へ足を運ぶこともあるのだった。最近再見した映画2本の話。


●「ハウルの動く城


 先日に再見。なんともう、前回見てから、半年近くが経過していた。


 久しぶりに見る「ハウル」。その開幕のかっちりとした世界観に惚れ惚れと見入る。うはぁと唸る。そこから段々世界観が揺らいでいく。本来の宮崎アニメの持つかっちりとした世界観を愛している人にとっては「駄作」と映るかもしれないが、でもそれは決して汚点ではない。俺はそう思っている。宮崎駿は「実感」の人である。その実感が心の「変容」に寄り添っているだけで、宮崎駿は未だ宮崎駿である。宮崎駿宮崎駿であることをやめない限り、私はリスペクトし続ける所存だ。
 再見してなんとなく気になっていたのは倍賞千恵子さんの「声」だった。最初は「コナン」のラナみたいな、若々しくない少女声である。それが90歳になることで老けた声になり、そこから徐々に若返って倍賞さん本来の声になっていく感じなんだけど、後半「生まれ変わったソフィ」の声を聞いたとき、はっとする。えっ。ちゃんと若々しい。違和感がない。ええっ。
 倍賞さん凄いじゃん。序盤と終盤の若ソフィも、全然声が違う。感情が乗ってくるにしたがって、きちんと少女声になっているのである。これは、得難い発見であった。


 神木くんのマルクルや、キムタクのハウルは、自分が「変身」または「変容」していることに自覚的であり、逆に倍賞ソフィや、美輪の魔女などは、変容に無自覚であるという点を、声の演技によってかっちり演出できているのな。この辺、宮崎駿のアフレコ演出の巧さだと思う。

 宮崎駿を「映画監督」たらしめているのは、このアフレコ演出の勘の良さという点にもあるかもしれない。押井守は「プロ声優」の巧さに比較的依存している(だから「パトレイバー2」などの素人声優のシーンは酷い)けれど、宮崎駿はきちんとキャラクターの声にまで自らの意思を通すのだ。この点大友克洋なんかは「へったくそ」で、絵に演出が負けてしまってスチームボーイはかつてない惨状となるわけだが。
 そう考えると、宮崎駿という「映画監督」には「押井守」でさえも届かない「演出」が出来る人なのである。なんせキムタクすらちゃんと演技で「聞かせる」んだから。なんでジブリはプロ声優を使わないんだ、と言う人がよくいるが、声にまで自らの意思を通す(または「声優から引き出す」)人にとって、プロ声優の「経験」という「色」はかえって邪魔になる。プロの引き出しが必要な人もいれば、その引き出しが邪魔な人もいる。だから、文句を言うのは筋違いなのである。



●「インファナル・アフェア/終極無間


 渋谷東急で再見。


 初見の時は、ストーリーをかみ砕くのに精一杯、というところで、あまり感情を入れずに見ていたことに、再見して気が付いた。つーか驚いた。ラスト間際、号泣してる俺がいたのである。いやー、泣いた。切なすぎるよラウ。
 こんなにもアンディ・ラウに感情移入するとは、自分でもびっくりである。求めても届かない切なさ。善人でありたいだけなのに、手に染みついた血の色は、決してとれやしない。ヤンの笑顔が、やけに遠く霞んで見えるぜ。ちくしょう。


 後はサムがねえ。凄いなと。獅子は我が子を千尋の谷に突き落とすがごとき所行。最初見たとき、ちょっと不可解だったんだけども、考えてみれば、「II」でヤンはハウの身内だということが明かされているわけだから、後腐れなく見殺しに出来る男だったのかもしれない。
 で、見殺しにする直前にみせる彼の笑顔がねえ、怖い。何考えているのか分からない不気味さを孕む。「I」よりもさらに凄みが増している感じで、この怖さはラウのトラウマとリンクしているのかもしれないな、とちょっと思った。