「誰よりも狙われた男」
原題:A Most Wanted Man
監督:アントン・コービン
原作:ジョン・ル・カレ
脚本:アンドリュー・ボーベル
「お前は本当の血の海を見たことがあるのか?バカが。」
この映画の主人公はギュンター・バッハマン(フィリップ・シーモア・ホフマン)という。学歴は高くない。だが、たたき上げでかつてはワルシャワ、アデン、ベイルート、バグダッドなどで、秘密活動要員としての輝かしい経歴を持つ。しかし、ベイルートでの「失策」を理由に左遷された形で、今はドイツ・ハンブルクでテロ対策班を率いている。独自のカリスマ性とワーカーホリックで判断は果断な人間性はチームからの信頼は篤い。
ハンブルクはドイツ第2の経済都市で、エルベ河を100キロほど上ったところにある港湾都市。つまり船でやってくることが出来る大都市である。
ハンブルクにおいて何故テロ対策班が動いているかと言えば、元々移民を受け入れやすい都市であったことと、その寛容性が9.11テロの首謀者たちの潜伏に利用されたからである。
ある日、部下の1人が監視カメラに写り込んだ1人の青年の姿に注目し、報告してくる。バッハマンは部下をねぎらい、男の動向に注目し始める。青年の名はイッサ・カルポフ(グレゴリー・ドブリギン)というイスラム過激派の1人で国際指名手配を受けていた。調べてみると彼はロシアからドイツへ密入国し、このハンブルクへやってきた。イッサは知り合いのつてで人権派弁護士・アナベル(レイチェル・マクアダムス)に接触。彼女を通じて、銀行家のトミー・ブルー(ウィレム・デフォー)に秘密口座の開示を要求する。
イッサをすぐにでも拘束すべき、という支局長の意向に対し、バッハマンはイッサを泳がせて、イッサの背後にある巨大な闇に迫るべきだと一蹴する。CIAから出向してきたマーサ・サリヴァン(ロビン・ライト)の賛意も経て、バッハマンの案が採用される。ただし、期限は72時間。彼はいよいよ動き出す。
イッサの父は旧ソ連の軍人、グリゴーリ・カルポフで、イッサはグリゴーリが14歳の少女を陵辱して生まれた私生児であった。そんな生い立ちゆえにイッサは父親を激しく憎んでいた。グリゴーリはトミー・ブルーの父親と懇意で、トミーの銀行に莫大な遺産を残していたのである。イッサはその憎い父の遺産を受け取りにハンブルクへ来たのだった。
バッハマンの目的はイスラム派の穏健的な学者アブドゥラ博士(ホマユン・エルシャディ)である。彼は博士がテロ活動の資金調達に関与していることを疑っていて、その息子をスパイ活動に巻き込んでいる。イッサの動きは、アブドゥラ博士の資金調達と関係があると踏んで、イッサを泳がせることにした。
ここからバッハマンのプロフェッショナルな活躍が始まる。飴とムチ、拉致、甘言、恫喝、脅迫。正義のためなら手段を選ばない男の腹芸は多岐に渡り、俗物でむっつりスケベなトミー・ブルーや、バッハマンから見れば甘ちゃんな世界観しか持たない小娘弁護士のアナベルらをも取り込み、彼はイッサの外堀内堀をしっかりと埋めていく。
しかし、バッハマンには忘れられない「血の海」の記憶がある。彼は常に酒とタバコを手放さないのは、その地獄が彼の世界そのものだからだ。彼の輝かしい経歴に傷をつけたベイルートの「失策」も、CIAの介入があったせいであり、彼のアメリカ人への不信は消えない。誰も信じることができない世界で、彼は生きている。
そして、いよいよ彼は博士の尻尾を掴み、目的を果たそうとしていた。バッハマンの中にも確実な手応えがある。
この事件に関わる人間達はそれぞれが善と悪の境界を揺蕩っている。誰もが善にも悪にもなり得る世界を生きていて、誰もがそれぞれの正義を抱えている。正義の為に手段を選ばない男・バッハマンもまたその例にもれない。彼の中にも、このイッサという青年のたどってきた人生への憐憫がある。本来、敵であるはずのイッサへの情がふっとわき上がり、そしてバッハマンが行った行動は、次第にイッサに惹かれつつあるアナベルの気持ちとシンクロするものであった。
だが。
タイトルの「誰よりも狙われた男」。その意味はラストで明らかになる。その瞬間、バッハマンは咆吼する。まるで、血の海に迷い込んだ一匹の野良犬のように。本当の正義はどこにある。そんなもの、どこにもありはしない。その荒涼とした世界を行く、バッハマン。しかし、彼もまた、自分の居場所へと帰っていくのだろう。新たな血の海の記憶を抱えながら。(★★★★)
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