「清須会議」
脚本と監督:三谷幸喜
江戸時代末期の江戸幕府大老、井伊直弼は井伊直中の14男であった。
彼は30歳までの人生を部屋住みとして過ごし、茶道・和歌・鼓など風流な趣味に没頭したことから影で「茶・歌・凡(チャカポン)」と揶揄されて過ごした。彼は自分の住む簡素な屋敷を、不遇な自分の身を自嘲するかのように、「埋木舎(うもれぎのや)」と称している。
彼が歴史の表舞台に出てきたのは、様々な「幸運」に恵まれたからにほかならない。
武家の次男・三男などというものは、家督を継ぐ長男がいる以上、他家に養子に出されるか、長男が死んだ時の保険に使われるかのどちらかで、不遇な目に遭うことが多い。
この映画には3人の「次男・三男・四男」が登場する。
織田信長という「天才」型の革新的な家に生まれたとて、その扱いが変わるわけでもなく長男こそが家督を継ぐ、というその形式は変わらない。しかし、先鋭的に生きたが故に信長は明智光秀による謀反・本能寺の変によって志半ばで歴史の表舞台から忽然と消え失せる。
その後明智光秀は討たれ、世に言う中国大返しによって、2万の軍勢で明智光秀討伐に貢献した羽柴秀吉は急速に発言権を強めていくのだが。その本能寺の変によって、織田家は信長とともに嫡子・信忠も死んだことから、今後の織田家の行く末を決める会議が清洲城で行われた。
候補となるものは次男・信雄(妻夫木聡)、そして三男・信孝(坂東巳之助)である。そしてキーパーソンとなるのは、信長の弟、織田信秀の四男・信包(伊勢谷友介)であった。
会議の中心にいるのは、信長が家督を継ぐ以前から長く織田家に使えてきた重臣・柴田勝家(役所広司)と彼との友情を育む、同じく織田家の重臣・丹羽長秀(小日向文世)。そして、今回の政変でにわかに台頭してきた新興の成り上がり・羽柴秀吉(大泉洋)。彼らが推す「後継者」候補が家督を継いだ暁には、その名代となることで織田家における大きな発言権を手中にすることが出来る。
そして、その会議こそ、のちの歴史の流れの中で重要な「歴史の潮目」であることは間違いが無い。その日本史の流れを変えた、戦国・安土時代の「血の流れない戦」を描いた5日間の話である。
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三谷幸喜は歴史物を書くとき、基本、史実から大きな逸脱をしない。そしてこの映画で、だれが勝つかなんてことは、下手すれば小学生でも知っている。三谷幸喜という人は、大河ドラマ「新選組!」でも決して歴史の史実からは大きく逸れるような描き方はしないのである。
三谷幸喜という人の歴史に対する態度は誠実だが、そこに彼は「現代日本人の皮膚感覚」を持ち込む。英雄たちの物語ではなく、歴史の真ん中にいる「生身の人々」こそが、この映画の眼目である。
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三谷幸喜の歴史へのアプローチの仕方は「風雲児たち」のみなもと太郎に近い。みなもと太郎が己の「ギャグ漫画家」という生業を利用して、「ギャグ」という「笑いの皮膚感覚」で歴史と誠実に対峙しながら「歴史人物」という「記号」に人間性を与えたように、三谷幸喜もまた、「コメディ脚本家」として「史実」に自らの「笑いの皮膚感覚」を持ち込む。
そして彼は、「コメディ」の作り手であるから、当然そのアプローチも「シチュエーションコメディ」となるわけである。しかし、歴史という重い枷があるからあまり、そこから逸脱することなく、である。よって、コメディとしての「濃さ」を期待すると肩すかしを食う。
彼はこの映画で「羽柴秀吉はどのように勝ったのか」という「だけ」の話を書きたいのではない、ということは明白である。彼が興味あるのは、むしろこの会議によって「敗れていくもの」のおかしみ、哀しみであり、「武将」の「野心」に翻弄されたり、その「野心」をどのように「利用」しようと狙う人々の生身の感覚である。
「義理人情」を頼みに単純に武功を立てて生きる旧い感覚の世代は淘汰され、他者の心を掴むことや「利益感覚」に長けた、新たな感覚の世代が新たな時代を作る。この映画で描かれるのはその対比であり、「歴史の必然」である。
しかし、人間それがわかっていたとしてもそうそう変われるものではない。それこそが、人の哀しさである。旧いやり方、過去の怨念、しがらみ。そういうものから逃れられぬ。故に歴史の必然の中で消えていく。
この映画で最も異彩を放つのが「4男」のチャカポン、織田三十郎信包である。彼の立ち位置は特殊だ。彼はこの「後継者レース」からは外れたところにいながら、「発言権」だけはある、という立場にある。そして、彼はその会議の渦中には決して立ち入れない。会議を「早める」ためだけに利用される存在である。
当事者ならぬ彼が、最後に秀吉に言い放つ言葉に何故三谷幸喜は多くの時間を割いたのか。そこを考えると、三谷幸喜という人が「勝者」を描きたいだけの人ではないことがわかるはずである。
三谷コメディとしての濃度は決して高い映画ではない。しかし俺はこの映画が好きだ。それは、三谷幸喜が等しく、この会議に関わった者たちへの「愛情」を存分にぶつけた映画だからである。歴史を塗り替える人、歴史の闇に埋もれていく人々を共に、「人間」として慈しむ映画なのである。(★★★☆)