虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「レ・ミゼラブル」

toshi202012-12-21

原題:Les Miserables
監督:トム・フーパー
作:アラン・ブーブリル/クロード=ミシェル・シェーンベルク
原作:ビクトル・ユーゴー


 良く出来た映画。だとは思う。


 妹のために一本のパンを盗んだがために40年近くに及ぶ長い間、流転の人生を生きることになる脱獄囚・ジャン・バルジャン。執拗に彼を追うジャベール警部。娘のために金を残そうとするうちに転落し、不幸の中死んでいく薄幸の母・ファンティーヌ。そしてジャン・バルジャンが生涯をかけて守ると誓う、ファンティーヌの娘・コゼット。成長したコゼットに惚れる、革命に燃える青年・マリウス。
 


 巨大船を引くジャン・バルジャンを含む囚人たちの姿を描く開幕からおなじみの登場人物たちが朗々と心情を歌い上げる、全編歌の嵐。ヴィクトル・ユゴーの代表作「ああ無情」を下敷きにミュージカルとして翻案し、世界的大ヒットした戯曲をトム・フーパー監督のリアリズム演出とともに描き出す。
 物語は1815年から1832年という15年以上の年月を2時間38分かけて描くという、主役も脇役も、登場人物たちの心情が歌となって溢れだし、台詞よりも圧倒的に歌ってる時間が長いという、まさに「歌う大河ドラマ」である。
 ファンティーヌ役であるアン・ハサウェイが直接歌う「夢やぶれて(I Dreamed A Dream)」や、マリウスに片思いするテナルディエの娘・エボニーヌが歌う「オン・マイ・オウン(On my own)」、クライマックスで流れる「民衆の歌(Do you hear the people sing?)」など、戯曲でおなじみの名曲がスクリーンで躍動するシーンは必見である。


 しかし、である。この映画の原作はヴィクトル・ユゴーの小説ではなく、あくまでもミュージカル版であることがこの映画の歪なるところでもあって、原作ではキャラクターがさまざまな螺旋の中で幾重にも運命の糸を絡ませていくのだが、ミュージカル版ではその辺はかなり端折られていて、ファンティーヌの死に様を改変したり、マリユスの父との関係の変遷、マリユスの父と幼いコゼットを引き取って小間使いとしてこき使っていたテナルディエの関係、1932年の学生の蜂起に突如登場する浮浪少年・ガブローシュの出自、コゼットの父の正体を知ったマリユスの葛藤などの詳細には描かれることはない。
 戯曲ならばともかくも、リアリズム映画として見ると、あきらかに物語に欠落箇所が頻出するまるで「NHK大河ドラマ総集編」の趣で、その欠落を音楽で無理やり補完しているので、だったら全編台詞劇として2部作、3部作の大作にしてもいいのではないかと思ってしまう。言ってみれば「ミュージカル化」は「ああ無情」を戯曲化する際の苦肉の策だったはずで、それを馬鹿正直に映像化してしまったことで、この映画は「リアルな登場人物がしゃべる代わりに常に歌ってる映画」という珍現象が起きることになる。


 トム・フーパー監督の演出は見事だと思うし、歌うことの「感情を喚起する力」は確かに素晴らしいのだが、全編の9割以上歌が続くと、さすがに辟易する気持ちも出てくるし、何でもかんでも「思い」を歌として「垂れ流す」のは、映画の表現力は薄まってしまうことにもなるということを、この映画ははからずも示すことになった。まことに惜しい力作である。(★★★)


 この映画をみるちょっと前に見た、韓国の戦争映画「高地戦」では、あるクライマックスのシーンで韓国の朝鮮戦争当時のヒット曲「戦線夜曲」が効果的に使われており、映画としての感情を喚起する「歌の力」の使い方がお見事である。