虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「恋空」

toshi202008-01-02

監督:今井夏木
脚本:渡邉睦月
原作:美嘉


 「痛み」を感じた。じわじわと確実に、苦痛を感じた。この映画を理解する上で、この「痛み」は重要なのではないか、と思う。


 個人的なことを言うと。見たくないものは見ない主義である。この世には見ない方が幸せなこともあるし、知らない方が幸せなこともある。俺が映画ファンとして足りないものはサドマゾの感性だと、自分でも思う。決定的に足りない。あることはあるんだけど、足りない。自分が辛い、と思ったり、つまんないもと思うものは見たくもない。という意識はあるわけです。



 しかし。見なければわからないこともある。映画の魔力はそこにあり、見なければ、結局語れはしない。だから、もうなけなしの勇気を持って、見に行く、ということも、ままありますよ。ええ。


 で、「恋空」である。


 実を言うと、見ないようにしてきた、2007年公開作品でもっとも見たくなかった映画である。元々映画ファン評価は最悪に近かった。男性観客からいい評判を聞いたためしがない。単純に評判が悪いだけならば、問題はない。しかし、怖かったのは、俺が「新垣結衣を嫌いになる可能性」のほうだった。風評の中に、「今なら、ポッキーダンスを目の前で見せられてもガン無視できる」という意見をいくつか目にしたからである。うーわー、と思った。それは・・・すごいな。と。どんだけすげーんだと。
 と、同時に、この映画を完全に無視できない理由があった。
 この映画が多くの女性に支持され、肯定的な反応を得ていることである。試写会で94%が支持、などというCMも見たことがある。映画会社や広告代理店が水増ししていたとしても、94%という数はちょっと嘘にしてはやりすぎであろう。つまり、これだけの数を提示してなお、信頼を勝ちうる裏付けがあった、ということではないか?それに、風評のなかに、かならず「女性のすすり泣き」というキーワードが入ってくる。つまり、多くの女性観客は、この映画に非常に感情移入しているということである。
 この極端にアンビバレントな反応を、どう解釈すればいいのか。俺の興味はそこにあった。というわけで、2008年元旦。見てきましたよ。


 ある意味、これほどドキドキしながら映画館に入ったのは久々ですね。俺はこれから何をみるのだろう、という。チケット買うだけでも、ちょっと動悸が激しくなっているのは、決して不整脈のせいではないと思う。野郎一人で見る「恋空」。ある意味、一番恐れていたことであった。というわけで、ついに意を決して、「恋空」を鑑賞。




 まず言えるのは。ストーリーの出来不出来を横に置いておくとして。それでも、それでも厳しかった。あのね。一度でもね。新垣結衣を「可愛い」と思ったことのある男子にとっては拷問のような映画である。。逆に「こんなドブス見たことねえ」ってくらい、新垣結衣の容姿が嫌いな、男・岩鬼のような嗜好の人には意外と受け入れられるのではないか。と思ったりした。


 見終えて最初に浮かんだ疑問は「なぜ、このヒロインを新垣結衣が演じねばならなかったのか。」である。


 見ていて何が辛いって、彼女の演じるヒロイン・美嘉のメンタリティがね、うん。なんつーんだろ。一言で言えば・・・安い。
 ヒロインは、高校入って3ヶ月目に、図書室でケータイを落とした、その落とし主と「ケータイ」で話す。その落とし主は彼女のメールのメモリーを全部消して、「本当につながりたい奴いんの?」とずーずーしくも聞き返し、彼女はその男の言葉に「そういやいないや」的にあっさりと受け入れる。そして、その相手とずーっと話したりする。この辺からすでに「なんだこの女」的な違和感はあるんだけど。
 この時に「写メ」で同時に撮った飛行機雲の画像を写して、それを符丁にして、ヒロインは、落とし主の正体・ヒロと出会うわけだけど。彼女はこの時、一回この「ヒロ」を振るんだけど、その時彼女が彼を振った理由が、彼が彼女に渡そうとした花を見て「お花がかわいそう」(そんな人とはつきあえない)。・・・てめ、見た目がガッキーじゃなかったら蹴り入れたくなる言いぐさですけどね。でもなんだかんだで付き合いはじめてですね、


 授業中にメールで呼び出されて学校エスケープ→彼の自宅で初体験→元カノの腹いせで見知らぬ男たちから輪姦され→学校復帰すれば嫌がらせ→彼氏と図書室で盛り上がって合体→妊娠→彼氏退学して働くことを決意→元カノにこづかれて転倒→流産→そのうちに別離


 という経験を1年で体験する人生ジェットコースターが、ヒロインを待っているわけですけれども。これほど衝撃的な内容にもかかわらず、踏み込んだ描写はないんですな。基本的に新垣結衣という女優からしてみたら「キスもNG」みたいな感じで。レイプのシーンはおろか、キスシーンまでフェイクで、アングルでごまかして「ご想像におまかせします」的な穏当な表現に変えられてるわけです。だから、展開的にはすんごいのに、映像的には非常に淡泊な映像に終始する。
 で。彼氏に振られたあとヒロインは、


 「恋の終わりがこんなにも苦しいのなら、あたしはもう二度と恋なんてしない。恋なんて…しない。」


 という舌の根も乾かぬうちに、今度は大学生の彼氏を速攻で作るわけですけど。そのいいわけが。


「優は運命と言ったけど、あたしには赤ちゃんが会わせてくれたような気がした。もう恋はしないなんて悲しいこと言わないで。ママが寂しいと、あたしも寂しいんだよ。そんなふうに言われた気がしてた。」


 もうこの辺からもう、完全にあきれかえるに至るわけです。でまあ、最後の方はまあ、なんだ。うん。ヒロってばなんであたしを振ったのかしらね・・・という理由がね明かされるという。まあ。うん。それは置いておくとして。


 ストーリーの流れだけ追えば、もう、「あり得ない」というレベルでリアリティのない悲劇のつるべ打ち。彼女自身、身も心も汚されながら、にも関わらず、懲りずにまた男と付き合い出す節操のなさ。表現が穏当であればあるほど、観客の「想像」こそが彼女自身に降りかかったことそのものであるならば、表現以前に「新垣結衣」自身が汚されているという観客の意識は、実はますます強固になる。
 この「依り代」である新垣結衣自身の「偶像」を破壊するには十分な内容とも言える。彼女自身が自らの偶像を無自覚にたたき壊していく様を見るのは、これほど忍びないものなのか、と映画の内容とはまったく違うベクトルで涙が出そうになった。


 「痛み」である。「苦痛」である。俺は、この映画から多大な痛みを食らった。しかし、痛みを越えてわかったことがもうひとつ、ある。


 この映画のリアルについてである。
 先ほど、俺は「観客の想像こそが彼女自身に降りかかったことそのもの」と書いた。この映画が、想像こそが「真実」という作劇に、結果的になっていること。実は、そのことこそが、映画「恋空」のもうひとつの見方なのではないか。
 自分は男性なので、ここからは多少憶測を持って書くのだが。我々男子は、基本的には、ヒロイン・美嘉が感じる苦痛は、感じることはない。初体験の破瓜の痛み、輪姦による屈辱と苦痛、妊娠の喜び、流産の痛みと絶望。それらを理解するために、男子は「リアリティ」を必要とする。アイドルではない、見た目も平凡な女性が、まごうことなき、痛みや苦痛にもがく「画」こそが、我々がヒロインが感じたものへの共感の「とっかかり」となるはずである。ところが、この映画はそれを描かない、だからこそ、男からしてみたら、この映画は「欠陥だらけの映画」と映る。


 しかし、翻って考えてみるならば。女子には、その「とっかかり」をもはや必要としない。多くの女性が、十代、ないし二十代には、その苦痛を想像できるだけの「経験」を通過してくるためだ。つまり、この映画は彼女たちの「痛み」の「記憶」を優しく揺り動かし、その痛みを、新垣結衣という依り代を媒介にして、共感する。
 観客の想像に委ねる穏当な表現こそが、実は多くの女性の「リアル」を揺り動かす逆説が、映画「恋空」の成功の秘密なのではないか。「優しい痛み」という、ポエムのような表現こそが、実は多くの女性を「痛み」を戻すリアルを与えていた。そう考えたのだがいかがだろうか。


 私にはこの映画自体が「苦痛」でしかなかったし、新垣結衣が「汚された」という思いも拭いきれない。ただ、それを感じなければ見えないこともある。そう考えることで、いくらか救いがあった、と思う俺は、少し甘いのかもしれない。が、そうでもしなければ、この映画をとても理解できないのである。(★★)