虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「それでもボクはやってない」

toshi202007-01-21

監督・脚本:周防正行
http://www.soreboku.jp/


 加瀬亮の映画である。


 俺が彼を初めてきちんと俳優として認識したのは大林宣彦監督の「理由」の一青年役だった。
 宮部みゆきの手による、ルポルタージュ形式を燃した異色ミステリ大作が原作だ。高層マンションで起きた殺人事件。107人の関係者の証言を積み重ねて、その物語はやがて孤独な闇を浮かび上がらせていく。宮部みゆきは、97年にこの小説を書き上げたが、彼女が闇の中に見出したのは得体の知れない、怪物のような青年だった。しかし、大林宣彦監督は、2004年に映画化した際、その青年の存在に初めて像を明確に描き出した。その青年を演じたのが加瀬亮だった。


 青年は哀れで孤独な、ちっぽけな存在に見えた。孤独にあえぎ、もがく。世界の中心で。哀しみを叫ぶけもの。彼は、どこにでもいる、孤独な青年だった。



 さて。


 本作は。たまたま乗り合わせた電車内で起こった痴漢事件の被害者に、犯人として袖を捕まれて呼び止められ、そのまま現行犯逮捕となった青年の物語である。
 加瀬亮はその、無実の被疑者の青年を演じている。


 彼は証言する。その日たまたま乗り合わせ、やってもいない痴漢の犯人に仕立て上げられたと。そして、そこまでの子細も詳しく語ってみせた。しかし。刑事は十分な証拠調べをせずに犯人と決めつけ、彼に執拗に証言を要求する。罪を素直に認めればすぐに釈放してやると。青年は応える。ボクはやってない。ボクは無実だと。
 しかし、被害者の少女が彼を犯人と名指しし、証言をしている以上、彼の証言とは決定的に食い違う。彼はついに拘留されることになった。しかし、それは、それから続く孤独な闘いの、ほんの幕開けに過ぎなかった。


 この映画を、ハウツー映画というものがいる。だがそれはどうだろう。俺は違うと思った。確かに刑事裁判の中で闘うためのハウツーは示される。そしてそれはたしかに役には立つだろう。だが、それはあまりにもはかない抵抗行為でしかない。良心的な判事に当たれば有効だが、事務的にこなす判事には蛙の面に小便、蟻地獄にはまった蟻に差しのべられた、ささやかな蜘蛛の糸に過ぎない。


 この映画が描いているのは、無実の罪で被疑者になったものの絶対的な孤独なのだ。


 周防監督は、加瀬亮を主役にキャスティングしてから、シナリオを書き換えたという。おそらくそれは、ラストも含めてだと思う。周防監督が3年もの取材で感じた、この国の刑事裁判に対する危機感、そして、被疑者というものの抱える、絶対的な孤独を、国家権力対個人という構図の中の、無辜の民の無力を、彼は、見事に体現してみせる。
 この映画が孕む危機感は、何も痴漢えん罪だけではない。ほかの刑事事件でだって、このシステムで裁かれることを忘れてはならない。痴漢じゃなくても、もし他の刑事事件で、ましてや殺人事件で逮捕・拘留されたら、あなたはこのシステムで闘うのですよ。周防監督はそう、我々に突きつける。


 彼の体現する孤独は、刑事事件の無実の被疑者すべてに当てはまる。


 どんなにあがいてもなお、閉ざされる道はあるのだとこの映画は示す。だからこそ、「無罪」と言う名の奇跡は、あまりにも尊いのだ。
 「理由」の青年と本作の主人公の違う点は、どんなに孤独と絶望にあえいでも、決して希望を捨てないことだった。司法制度という名の、無情なシステムに追い込まれても追い込まれても彼は、自らの無実を信じる。そして彼は、哀しみと怒りで今にも泣き出しそうなその顔で、しかし決然とこう叫ぶのだ。


 「それでもボクはやってない


 俺はその姿に、何度もうめき、驚き、そして泣いた。傑作である。(★★★★★)