虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「ホテル・ルワンダ」

toshi202006-01-16

原題:Hotel Rwanda
監督・製作・脚本:テリー・ジョージ 共同脚本:ケア・ピアソン


 「君たちはニガーですらない。『アフリカ人』だ。だから国連軍は撤退する。虐殺を止めもしない。」


 上記の台詞は親しくしていた国連軍の大佐が、自嘲的に主人公に吐いた台詞だ。この時までこの映画の主人公・ポール(ドン・チードル)は自分の、いや自分たちの置かれた立場を、完全に理解してはいなかった。彼らが完全に見捨てられていたことに。


 アフリカ・ルワンダで1994年に実際に起こった悲劇を背景に、一人の男の決断と苦闘を描いた実話である。



  ポール・ルセサバギナは優秀なホテルマンだった。彼の勤めるホテルはベルギー資本直系の支店でルワンダの首都・キガリでも指折りのホテルだった。外国からの宿泊客は引きもきらず、国連軍やジャーナリストも御用達。そしてそういった「お客様」にも満足の行くサービスを叩き込まれた彼は、支配人としてその国の人々には決して手の届かない高級品でも取り寄せ、さらには政府や軍、国連関係者までコネを利かせて、ホテル経営はまさに順風満帆といったところだった。
 だが一方で、ルワンダ国内では不穏な空気がいよいよ濃くなっていた。ベルギー支配による、「ツチ族」「フツ族」の区分けと、そこから発生した民族アイデンティティは、かつて統一されていた国内をズタズタにしていた。街ではフツ族民兵が威圧的に練り歩き、ラジオからはフツ族の民族高揚を煽る言葉が当たり前のように流れていた。しかし、それはあくまで日常のほんのささいな風景であり、国連軍が駐留し、間もなくフツ族ツチ族は和平協定も結ばれるはずだ。それに彼の日常はそんなことを気にする余裕もなかった。




 しかし、起こるはずのない災厄は最悪の形で訪れた。穏健派のフツ族の大統領が何者かに殺された。和平協定どころではなくなり、フツ族ツチ族の仕業と断定。


 「高い木は切り落とせ」


 ラジオから流れたこの一言から、民兵によるツチ族の虐殺が始まる。


 近隣の人々から頼られる存在だった彼は、妻とツチ族の彼らを連れてホテルへと逃げ込む。だがそこにも民兵が現れ、彼らは殺されかけるが、なんとかフツ族の隊長を懐柔して、妻子と彼らを匿う。


 最悪はかならず予兆がある。だがその予兆に気づいたとしても、見なかったことにしてやり過ごしてしまう。そして、それが起こったとしても、それは容易に理解できるものではない。
 だが一度体験してしまえば、それは動かしがたい現実と、残酷な結果を常に当事者に突きつける。主人公はその国で起こった阿鼻叫喚の地獄から、実は薄皮一枚ながらも遠い立場だった。この国における彼は経済的にも立場的にも恵まれた人間だったのだ。だが、そんな立場の彼がその地獄に向き合い、逃げ出さずに闘い続けたのは、彼の愛する妻が虐殺される側のツチ族の人間だったから。そして、闘う「力」があったからだ。


 そしてもう一つ理由がある。彼は実は救えるはずの人々を見過ごしていた。向かいの家に住み、無実の罪で連行されたツチ族の庭師。そして彼に助けを求めに来たにも関わらずむざむざ家に帰してしまった妻の兄夫婦である。彼にはツチ族に対する少なからぬ負い目があった。


 最悪な状況で人は人を容易に救わない。そして、命は簡単に壊れていく。
 国連軍は、殺されていくツチ族を、救う価値のない人々とし、外国人だけを助けて撤退してしまう。歯止めのなくなった暴虐は一層苛烈になり、国連軍も利用する外資ホテルゆえに手が出せなかったフチ族の民兵が生け贄を求めてホテルに魔の手を伸ばす。

 ホテルごと見捨てられたことで、彼の中では民族意識とは違う、選民意識とも違う、「アフリカ人」意識のようなものが芽生え、それが彼を突き動かす。そして彼の武器は皮肉にも、外資系が彼に叩き込んだホテルマンとしての意識と、プロとして培ってきた交渉術とコネ、そして信頼だった。


 人は人を救う瞬間、それは「自分」自身を救っている。だが、それは殺すより、死ぬより、そして生き残ることよりも、はるかに困難な道。多くの条件付けを必要とし、なにより強い意志と知恵と行動力が必要だ。
 この虐殺で100万人以上が死んだ。彼が救えたのは、数の上では1200人ちょっとに過ぎない。それでもなお、命が軽くなっていく、そんな状況だからこそ、より困難であった救済という行為そのものが輝く。この彼の行いが、奇蹟と呼ばれる由縁。そして、奇蹟は心次第で、誰にでも起こせるのだと、この映画は示している。(★★★★★)


公式サイト:http://www.hotelrwanda.jp/